李登輝元総統が死去…台湾で批判の声も、中国から業績称賛の声も

Record China    2020年7月30日(木) 21時30分

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中華民国(台湾)の李登輝元総統が7月30日に、台北市内の病院で死去した。97歳だった。写真は2014年に訪日して講演をした時の様子。如月隼人撮影。

中華民国(台湾)の李登輝元総統が7月30日に、台北市内の台北栄民総医院(病院)で死去した。97歳だった。台湾に中華社会としての初の本格的な民主主義をもたらした指導者であった反面、台湾の独立を訴えた政治家だっただけに、中国大陸人や台湾人からのネットへの書き込みが相次いだ。

李元総統は2020年2月8日に牛乳を飲んだ際にむせ込み、咳が止まらなくなったことで病院に搬送された。病院では肺湿潤があることなども分かった。その後は入院生活を続け、7月28日にはネットで「死亡説」が広がったが、デマと分かった。29日午前には、蔡英文総統、頼清徳副総統、蘇貞昌行政院長(首相)が見舞いに訪れた。

李元総統の容体悪化が伝えられるとともに、台湾では元総統についてのネットへの書き込みが増えはじめた。最も目立つのは、李元総統を「台湾民主の父」と評価する意見だ。台湾では、戦後になってからの長期間、国民党の指導者だった蒋介石総統や息子の蒋経国総統による、強権・恐怖政治が続いていた。蒋経国総統は米国からの圧力を受けたなどで、民主化に向けた姿勢を見せていたが病気に倒れたため、李登輝氏が最初は総統代行として、次に総統として民主化を本格的に進めることになった。

台湾では、李元総統の支持者の評価として「総統在職中に台湾を権威主義から民主に向かわせ、万年国会の改選、総統の直接選挙、警備総司令部の権限縮小を行い、言論の自由を徐々に保障していった」などが挙げられている。

「万年国会」とは中華民国国民大会を指す。1948年までに中国各地の代表として選出された議員で構成されており、国民党が台湾に移ってからは改選されることもなく機能していなかった。「万年国会」は民主化を求める人々から強く批判され、李元総統が要求に応じる形で1991年末に議員全体が退任する方式で、歴史の幕を閉じた。警備総司令部は台湾の戒厳維持などのために設けられた機関で、やはり李元総統が主動することで1991年に廃止された。

李元総統への評価として、「台湾人意識の確立」を指摘する声もある。台湾出身者として初めての総統であり、「台湾意識」や「台湾の主体性」の価値観を確立したとの見方だ。

なお、李元総統には、「権力確保のために派閥政治や金権政治をもたらした」との批判があるとも指摘された。事実、李元総統の在任期間中には、台湾政界で多くの汚職が明るみに出でている。また、李元総統自身も2011年に公金横領や資金洗浄の罪で起訴された(13年に台湾地方裁で無罪判決)。

一方の大陸側では、李元総統を批判する声が圧倒的に多い。中国当局がこれまで、李元総統を「台湾独立運動の元凶」とみなして批判や非難を繰り返してきたことも影響しているが、中国人は庶民に至るまでほとんどの人が「台湾は中国の一部」と考えており、大陸側の「嫌・李登輝」の感情は多くの中国人の自然な気持ちと理解することができる。

中国大陸側からの書き込みとしては、「真の名は李登輝でなく、岩里政男だ」との主張もある。「岩里政男」とは日本が台湾を統治していた時代に李元総統が用いた日本名だ。李元総統は、「日本精神」を極めて高く評価する発言を繰り返しただけに、中国側では「植民地根性の持ち主」といった批判が定着していた。

上記主張は28日の「死亡説」がデマと分かった後に寄せられたもので、「岩里政男氏が健康を回復し、中国が台湾を取り戻すまで長生きすることを、心よりお祈りする」といった皮肉も追加されている。

ただし一方では、「中華民族の歴史に、政権を平和的に交代させる1ページを築いた。その歴史的地位は、孫中山(孫文)と肩を並べる」と、極めて高い評価を示した大陸人もいる。(如月隼人

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