日本僑報社 2016年7月7日(木) 8時30分
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中国人観光客によるマナー違反に関する報道が増えているが、中国人自身はマナーの問題をどのようにとらえているのか。五邑大学の林さんは、中国の街で見た光景とおばあさんの教えについて、作文につづっている。資料写真。
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中国人観光客によるマナー違反に関する報道は、特にここ数年、国内外で大きく取り上げられるようになった。中国人自身はこうしたマナーの問題をどのようにとらえているのか。五邑大学の林[女亭]さんは、中国の街で見た光景とおばあさんの教えについて、作文に次のようにつづっている。
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私はくたくたになった体を引きずって、頭の中に、ただ家のベッドを思い浮かべながら信号にさしかかった。信号が赤になった。周りの人々は黙りこくっていらいらと信号を見ていた。いきなり、「カーン」と一人の若い男が握っていた瓶を地面に放り投げた。周りの人は「はっ」として一歩下がり、またぶすっとした顔に戻った。私は「最低だ。でもよくあることじゃん」と思ったが何もしなかった。周りの人と同じように。横断歩道を渡ろうとした時、ある光景が目に飛び込んだ。それは腰を曲げて瓶を拾い上げているおばあさんだった。その時、急にフラッシュバックして、頭の中に祖母が浮かんだ。
子供の頃、よく祖母と一緒に買い物に行った。その時、祖母はいつも歩きながら周囲を見ていた。ゴミがあるとすぐ拾ってゴミ箱に入れた。私は「どうしてなの?乞食じゃあるまいし」と頭をかしげた。祖母は、「それはね、人間みたいにゴミにも自分の居場所があるのよ。ゴミはゴミ箱に。それに、危険なゴミもあるのよ。気を付けないとけがをするかもしれない。いい?この一言ぜひ覚えてほしいの。他人のために何かをしてあげると、いつか自分のためにもなるのよ」とニコニコしながら言った。その時の言葉は私には難しかったが、心の中になんとなく温かいものが広がった。それからもう十数年たつ。
最近、国内のテレビで「中国人の公共モラルはどこに捨てられたのか」というニュースを見受ける。新聞にも「外国の街角に中国語で『ゴミを捨てるな』と書いてある」といった記事が数えきれないほど載っている。経済の発展につれ、私たちも次第に自己中心的になり、心にある天秤が傾いている。他人への思いやりが少なくなってきた。でも、もっと恐ろしいことは、私たちがそれに気づくことなく、慣れていることだ。他人への無関心はウイルスのように私たちの全身をむしばんでいる。悪魔のように、どこかで顔を歪めて私たちをあざ笑っている。
私たちはいつもスローガンを叫ぶのに、何度も何度もそれを無視した。努力もせず、ただ上辺だけだった。道徳というのは一体何だろう。それは、人あるいは社会、世界への思いやりではないだろうか。私たちは深く考えたことさえなく、昔から持っていたその宝を捨てた。私たちは風に巻き上げられた落ち葉みたいに、舞い上がっているように見えるが実は漂いながら落ちている。
実は祖母が拾い続けたものは、ほかでもなく、私たちに捨てられた「モラル」だった。私たちにまだ何か残っているのだろうか。このまま流されたままでいいのか。私たちは本当に平気でいられるのか。いや、きっと祖母のように、あのおばあさんのように一生懸命拾っている人がたくさんいる。そして、私は祖母の言ったあの言葉が少し分かるようになってきた。生活は鏡のようなもので、私たちがそれに微笑んだら、その代わりに笑顔を返すのだ。私たちが他人に少しでも思いやりを増やせば、他人も同じことをするだろう。(編集/北田)
※本文は、第十回中国人の日本語作文コンクール受賞作品集「『御宅』と呼ばれても」(段躍中編、日本僑報社、2014年)より、林[女亭]さん(五邑大学)の作品「落ち葉」を編集したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。
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