人民網日本語版 2018年5月21日(月) 22時40分
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2008年に四川大地震が発生して10年目を迎えた。当時、救援活動に参加した日本の国際緊急援助隊の隊員が地震で壊滅的な被害を受けた四川省北川チャン族自治県の地震の遺跡や地震紀念館、新しい市街地などを訪問した。
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2008年に四川大地震が発生して今月12日でちょうど10年目を迎えた。当時、救援活動に参加した日本の国際緊急援助隊(JDR)の隊員・糟谷良久さん(現在、日本国際協力機構中国事務所の副所長)と中島康さんが同日、地震で壊滅的な被害を受けた四川省北川チャン族自治県の地震の遺跡や地震紀念館、新しい市街地などを訪問した。
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■止まってしまった時間
10年ぶりに被災地に立った中島さんは、「建物も街並みも変わったが、山の形は変わっていない」と改めて自然のすごさを感じながら、「山の形を見れば、救援活動を行った場所を見つけることができる」と話した。
08年5月16日、中島さんは随行医師として、JDRと共に壊滅的な被害を受けた青川県で救援活動に携わった。阪神大震災の際に救援活動に携わったほか、急救センターでの勤務経験がある中島さんは、「準備万端と思っていたが、被災地に到着してただ茫然とするしかなかった。なぜなら大自然の破壊力は、自分の想像をはるかに超えていたからだ。破壊されてしまった街を目にし、何をすれば良いのか分からずに、ただ、呆然と立ち尽くし、医師として何ができるのか、人として何ができるのか、突然分からなくなってしまった」と振り返る。中島さんの当時の主な任務は隊員と災害救助犬の健康状況をチェックするほか、救出された被災者の状況を確認することだった。しかし、実際には、食事を作ったり、トイレを設置したり、「できることは何でもした」という。
地震発生後、日本政府は中国政府の要請に応じて、国際協力機構(JICA)の救急隊員61人を派遣した。隊員は外務省、警察庁、消防庁、海上保安庁、JICAの職員で構成されていた。隊員は、地震発生後、一番初めに被災地入りした外国の救援隊で、1949年以降、中国で救助活動に携わった初めての国際救援隊でもあった。
糟谷さんは当時、救援隊が中国側と連携をとって活動するための調整役を担っており、「私たちが到着した時、被災者の生死を分けるターニングポイントと言われる『72時間の壁』は過ぎていたものの、隊員らはまだ救える命があるはずという希望を胸に抱き、あきらめていなかった」と話す。
19日に撤収するまでに、日本の救援隊は青川県と北川中学、北川県城で捜索に当たり、合わせて15人の遺体を発見した。「隊員たちはお子さんたちを一人一人、大事に学校の下から出してあげて、顔を拭いてあげて、抱き上げて、出してあげた。その姿は今でも胸に焼き付いている。中国を離れて、日本に帰り、家に着いたら、涙が止まらなくなった。何でか分からないけれども、テレビをつけてまだ地震の様子が流れていて、涙が止まらなくなった」と糟谷さん。
毎年5月12日が近づくと、北川の旧市街地で崖崩れが起きた景家山では、大きな横断幕が掲げられている。それは、ある女性が亡くなった息子に宛てた手紙で、周囲には慰霊のための線香の煙が絶えたことはないという。
「大きな山にとって、地球の歴史にとって、災害は一瞬のことに過ぎないかもしれないが、子供を失った遺族の時間は、永遠にそこで止まってしまい、前には進まなくなる」と中島さん。
■言葉なしでもコミュニケーション
08年に救援に参加した時に中国に初めて来た中島さんは当時、中国語が全くできなかった。始めは、言葉が通じないないため一人では行動するのすら心配だったが、一杯のインスタントラーメンがその心配をかき消してくれたのだという。中島さんは、「当時、一人で救援隊基地に残っていた時に、勇気を出して被災者にコンロを借りた。指でコンロを指しただけで分かってもらえ、ラーメンを作るのも手伝ってくれた。コミュニケーションに言葉はいらないのだと分かった」と振り返る。
糟谷さんによると、救援においても同様だったということで、中国側と協力して救援に当たった時、言葉の壁は全く感じなかったという。なぜなら、救援方法は共通していたからだ。1997年から2004年にかけて、JICAは中国と日本の消防協力プロジェクトを実施したほか、北京の消防訓練センターのメンバーを研修のために日本に招き、日本の消防庁も、救助技術をそのメンバーに指導していた。四川大地震の際、救援現場には、中国各地から来た救援チームがおり、その中に北京市消防局のメンバーもいた。双方が協力して救援に当たった際、日本側の隊員は言葉は通じないものの、救援方法は同じであることに気付いて驚き、協力は非常にスムーズだったという。「日中両国が救援の分野で技術協力をすることの価値を反映している」と糟谷さん。
■今後も中国と協力して防災活動を
糟谷さんは、長年、緊急救援活動に携わっており、15年には、各国の救助チームの能力を評価するIER(INSARAG External Re−Classification)を受験する国際緊急援助隊救助チームの副リーダーと訓練責任者を務め、17年からはJICA中国事務所の副所長として中国で勤務している。
北川新城区を歩いた糟谷さんは、きれいな街並みや立ち並ぶ家屋を見て、「中国のスピード」に驚いたという。北川県城旧址は、災害がもたらした傷を忘れることがないよう、地震遺跡として今も保存されている。糟谷さんはこの方法に賛同を示し、「防災意識を高めることは、中国の災害分野において非常に大切。地震が多発する日本と異なり、中国は広く、地理的環境も場所によって異なる。四川の人々は、四川大地震や雅安地震を経験しているため、防災対策の重要性をよく認識していると思う。でも、中国全体を見ると、災害は自分とは関係ないと思っている人もいるだろう。しかし、災害が起きた時、自分は何をすべきなのか、みんなが知っているべき」との見方を示す。
糟谷さんによると、15年から、JICAは四川で、「減災教育・能力建設モデルプロジェクト」を実施しており、雅安の対象となった学校102校で、防災教育や安全訓練を展開し、今後は中国全土でそのプロジェクトを実施する計画という。
その他、四川大地震が生じてからこの10年の間に、JICAは中国国家地震局や住房・城郷建設部(省)、四川林業庁、中華全国婦女聯合会などと共に、地震時の緊急救援能力の強化、耐震性を備えた建物、被災地の森林回復、カウンセラーの育成などの面で技術協力プロジェクトを展開し、中国の防災、減災、救援能力のさらなる向上を図ってきた。糟谷さんによると、11年に東日本大地震が発生した際、中国も国際救援隊を日本に派遣した。中国と日本は隣国で、互いに支援し合うのは当然のことだからとその理由を話す。
取材を受けた後、中島さんは東京に戻り、災害医療の研究を引き続き行うという。阪神大震災が起きた当時、まだ医大生だった中島さんは、緊急時に仕事を任せてもらえる医師になることを志し、急救センターの外科医となって、JDRの隊員に申し込んだ。四川大地震後、中島さんは一人の力には限りがあると気付き、日本の国際医療チームの訓練マニュアルを改訂して、訓練ガイドを製作し、関連の専門スタッフを指導するなど、災害医療に取り組んでいる。中島さんの目標は、「病院をもっとよくし、もっと素晴らしい医師を育成し、一人でも多くの人を救うこと」だという。(提供/人民網日本語版・編集/KN)
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