工藤 和直 2018年12月2日(日) 14時10分
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1987年冬、上海虹橋空港に降り立ち、生まれて初めて中国の本土に足を踏み入れた。上海市南京路は異常なくらい自転車があふれていた。写真は筆者提供。
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1987年冬、上海虹橋空港に降り立ち、生まれて初めて中国の本土に足を踏み入れた。上海市南京路は異常なくらい自転車があふれていた。上海から蘇州までまだ高速道路はなく自動車で5時間近くかかった。2500年前からある京杭大運河を越えて蘇州高新区へ渡る獅山橋はまだなく、寒山寺付近から渡し船で対岸に渡った記憶がある。
【その他の写真】
(写真1)は1990年代初期、まだなかったカルフール付近から見た高新区である(1989年に中央の獅山橋が完成)。SND(高新区管理委員会)や金獅大廈ビルが建築中である。濱河路との交差点にまだ赤い新区のモニュメントはできていない。(写真2)は最近の高層ビルが増えた高新区である。蘇州に工場進出のため、獅山大橋南近くにあった桜並木では蘇州一だった横河電機さんへ、事情収集のため何度と訪問した(現在は移転、桜木も伐採された)。1994年くらいから“ぼちぼち”日本料理屋らしきものができてきた(現在もある一番館が最初)。いつしかこの500メートルの商業街を“日本人街”と呼ぶようになった。
2003年春、SARS(重症急性呼吸器症候群)感染で多くの方が犠牲となった蘇州に、家族に「どうしても行くの?」と言われながらも出張した。昼は蘇州市政府との交渉や銀行回りなどで時間がつぶれたが、“駐在者外出禁止令”が出ているが、“出張者禁止令”はないのを口実に夜な夜な“日本人街”に繰り出した。当時の日本人街はまだ道幅が半分のドブ板を渡るような泥道であった。SARS騒ぎで人影も少なくどの店も客はほとんどない状況、いつも行くのは橋の横にある日本料理「伊藤園」2階にあった「蝶」と言うスナックであった。この厳萍(Yan Ping)ママとは銀座以来の知り合いでもあった。その後、2004年2月から正式に蘇州駐在となった。(写真3)は“日本人街”入口にあった懐かしいイルミネーションゲートである(2012年の反日暴動事件後に解体)。
高新区建設が始まったのは1986年6月13日である。1992年11月12日に「蘇州国家高新技術産業開発区」と命名された。面積は223.4平方キロメートルである。当然開発するにあたり多くの道路工事も着工し、今では当然のようにある道路名もそれぞれの歴史がある。開発を進める上で出したコンセプトは「真山真水園中城」である。このため南北の街道は「水」に関係し、東西の街道は「山」に関係する名称になっている(例えば獅山路)。
この“日本人街”最大の存亡の時が、6年前の2012年9月15日の反日暴動事件である。なじみの日本料理店・スナックに近隣の日系企業やイズミヤ百貨店が暴徒で破壊され、その後2週間は営業ができない状況となった。(写真4)は暴徒によってひっくり返されたレクサスである。(写真5)は頻繁に通ったスナック「Color」の玄関である。玄関ドアやガラス壁は破壊されたが、現在も王静ママは元気で営業されている。この事件当時、“日本人街”を中心に8000人ほどの邦人が高新区に住み、蘇州市内だけでも1万人以上が住む町であったが、その後はチャイナリスクという事で、進出日系各社が事業を縮小し、現在はピーク時の半数と激減している。そして現在、“日本人街“は日本人と中国人が共に平和に暮らす“日華街”となっている。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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