八牧浩行 2019年1月4日(金) 9時50分
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昨年12月に中国の東北地方を訪問、各地を取材し多くの人たちと交流した。旧満州で、戦争の爪痕が残る地域。侵略や戦争によって女性や子どもなど一般市民が犠牲になったが、中でも日本人残留孤児の悲劇は筆舌しがたい。写真はハルビン市内。
昨年12月に中国の東北地方を訪問、各地を取材し多くの人たちと交流した。旧満州で、戦争の爪痕が残る地域。侵略や戦争によって女性や子どもなど一般市民が犠牲になったが、中でも日本人残留孤児の悲劇は筆舌しがたい。
1945年8月15日に太平洋戦争が終わると、戦場や植民地支配下だった「外地」には、兵士と民間人合わせて700万人近くが取り残された。「開拓団」「銃後の民」などと称され、日本から移住した家族にとって、苦しい人生の始まりだった。混乱の中、中国大陸や朝鮮半島で引き裂かれた家族からは、残留孤児・婦人が相次いだ。
旧満州は1931年の満州事変によって日本が占領した中国東北部地域である。日本は翌32年、清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀を執政とした傀儡国家の満州国を建設。日本政府は全国の農村から移住者を募り、「満蒙開拓団」として送り込んだ。満州に行けば広い農地が所有できると次男や三男などが新天地を求めて渡った。入植地の6割以上は元来中国人が耕作していた農地などを安価で強制的に買収したもので、追い出された中国農民の中には匪賊となり、開拓地を度々襲撃、命を落とした開拓民も多かった。
◆ 満蒙開拓団の3割が犠牲に
開拓民の運命が暗転したのは、日本の敗戦が決定的になり、1945年8月9日にソ連軍が「日ソ中立条約」を一方的に破って対日参戦してから。満州を守っていた日本軍(関東軍)がいち早く撤兵した。当時成年男子は徴兵されており、残された女性や子ども、老人は逃避行したものの、ソ連兵や現地人に襲撃されたり餓死・衰弱死したりした。終戦当時満州にいた日本人は約155万人。そのうち満蒙開拓団は27万人でその3割以上が死亡したとされる。
こうした中、親と死別したり生き別れたりして現地に取り残された子どもたちが残留孤児となった。孤児となり中国の養父母に育てられたり、やむなく中国に残ることとなった人も多かった。1945年の終戦当時ハルビンで残留孤児となったKさん(現在78歳)が苦難と復活の日々を語った。
私(Kさん)は1945年の終戦時、5歳だった。父(終戦時35歳)はハルビンのはるか北西、札蘭屯近くの開拓地に1941(昭和16年)に家族と共に入植した。父は戦況が悪化した1944年初めに北方へ応召され、残されたのは母(36歳)と姉(11歳)と兄(9歳)弟(2歳)の5人だった。
終戦とともにソ連軍が開拓地に侵攻してきた。一家は他の開拓民とともに野宿しながら徒歩で拠点都市ハルビンを目指した。5歳の子供には辛い行軍。私は「もう足が動かないよ」と泣きだした。すると母が「寒いからね。足をさすって動かせば動くようになるよ」とやさしく励ましてくれたのをかすかに覚えている。
途中、極度の食料不足で栄養失調になった弟が衰弱死。わずか2年の命だった。残った4人でようやくハルビンにたどり着き、集合場所の伊勢丹百貨店に落ち着いた。満州の北方に位置するハルビンの晩秋はめっぽう冷え込む。
しばらくして無理がたたったのか、母が体調を崩し亡くなった。おにぎりがすぐ氷りつくほどの寒い日だった。当時母は36歳。三男を失った上に幼い子ども3人を残して力尽きた…。さぞや残念だったろう。母の遺体は馬車で運ばれていった。子どもだけ3人が残された。今から考えれば1945年12月頃だと思う。
馬車で運んでくれた中国人の人たちが、孤児となった子どもの引き取りを希望する中国人に「もらいたい人はいませんか」と声をかけた。姉、兄と私の3人はそれぞれ別の中国人に引き取られ別れ別れになった。どこに行ったか、後年になるまでわからなかった。
その後、私が引き取られたのは、ハルビン郊外で牛馬を中心とする獣医医院を経営する一家。妻と年上の娘4人がいた。男の子がいない家は潰れるという風習が残っていた時代で、養父としては将来への期待があったのかもしれない。しかし養母やその娘たちから、私は徹底的にいじめられた。
◆極寒の朝、飯炊きからトイレ掃除まで
朝は5時に起きてかまどに火をつけて飯を炊き、トイレ掃除をやらされた。冬のハルビンは零下25度になる極寒の地。トイレは外なので辛かった。養父は仕事で家にいないことが多く、養母と姉妹が肉まんを食べているときでも、自分にはトウモロコシを固めた食事しか与えられなかった。夜寝床でやさしかった亡き母のことを想い涙ぐんだ。自分に年が近い3番目のご義姉(三女)がやさしくしてくれたのと、養父がボールペンや鉛筆をたまに買ってくれたのが救いだった。布団も干してもらったことがないほどで、体調を崩し、子どもには珍しい帯状疱疹と診断されたこともあった。
現地の小学校に通ったが、絵が得意で勉強もできたので、先生や近所の人にはかわいがられた。16歳になった時に、近所のおばあさんたちが早く家を出た方がいいと、官舎つきの就職先を紹介してくれ就職試験に合格した。入社したのは水利ダムや石油掘削に適する場所を探査する会社で、夏は馬車で各地を回り、冬はハルビンの宿舎で作業した。18歳の時、「吉林省水利工程局」に転職、ダムを造る仕事でやりがいのある任務を任された。
職場の先輩の奥さんが目をかけてくれ、「早く結婚したほうがいい」と知り合いを紹介され1958年に結婚した。妻は気立てがよく、家事その他をきちんとこなした。私が18歳、妻は17歳だった。会社がある長春の社宅で新居を構えた。1男2女に恵まれ幸せな日々を過ごした。
◆訪日し実父を捜したが…
中国人孤児であると言われ、中国人の名を付けられて育ち、日本人であるとの認識は全くなかったが、絶望の淵に立たされる出来事が起きた。1968年に、会社に勧められて共産党に入党申請をし、戸籍資料などをそろえた際、日本人の残留孤児であることが判明した。中国人孤児と思い込んでいたため大きなショックを受けた。その頃は文化大革命の真っ最中。戦時中に日本軍に侵略され肉親を殺された人も多くいて、日本人というだけで罵られた時代だった。自殺しようと思った。離婚も考えたが、妻を紹介してくれたお姉さんが「子どももいるから離婚させませんよ」と言われ踏みとどまった。共産党への入党はできなかったが、会社は日本人であることを極秘扱いにしてくれ、仕事を続けた。
1945年に離別した兄弟のうち姉(終戦時11歳)は裕福な中国人実業家に育てられ、比較的幸せな子ども時代を送った。兄(9歳)も近郊の家に引き取られたが16歳の時に病死した。いずれも後でわかったことだ。
実父は応召先のチチハルで終戦を迎え、3年間シベリアに抑留された後、帰国し出身地の大阪に居を構えた。厚生省に再三出向いて家族の安否を長年探し回ったが、残した子供たちの行方は分からず、結局あきらめたようだ。
やがて1972年の日中国交回復などにより日中関係が正常化、3人の子どもにも恵まれた私は姉の行方を探し始めた。そして親戚の力添えもあってハルビン近郊に居住していることをつきとめた。再会したのは別れ離れになってから実に40年近い1984年のことだった。その頃はトウ小平の改革開放路線が軌道に乗り、日中関係が最も良好だった時代。「日本人」と胸を張って名乗ることができ、誇らしい気持ちになった。
1981年から厚生省が中心となって中国残留孤児の訪日肉親捜しがスタート、多くの残留孤児が日本を訪れて肉親を探すようになった。私は1988年に中国在留日本人孤児訪日調査団の一員として訪日したが、ようやく探し当てた実父は既に死亡していた――。
◆「永遠の不戦」を目指そう
筆者は話を聞いて思わず感情移入した。第2次世界大戦で7000万人が亡くなり、日本人310万人が命を落とした。中国人は1000万~2000万人と推計されている。戦争は軍隊だけでなく弱い子どもと家族が犠牲になる。
日本は明治維新になってから、日清、日露、日中・太平洋戦争と1945年の第2次世界大戦敗戦まで約九年間に一度戦争していた計算。そして戦後73年、主要国で日本だけが戦争をしなかった。戦後の平和は貴重であり、「永遠の不戦」を目指すべきである。一方、中国は改革開放以来の40年で飛躍的な発展を遂げた。文字通り「世界のリーダー国」に躍り出た今、習近平政権が掲げる「人類運命共同体」の理念をさらに進化させ、政治経済面での国際協調と軍拡抑制などを具体化する必要がある。
今回の中国東北地方訪問では中国のメディア関係者とも議論し、これらの点に留意しながら、正確な情報を発信すべきだとの点で一致した。対外侵略や戦争は絶対阻止しなければならないとの思いを新たにした取材旅行だった。
(完)
■筆者プロフィール:八牧浩行
1971年時事通信社入社。 編集局経済部記者、ロンドン特派員、経済部長、常務取締役編集局長等を歴任。この間、財界、大蔵省、日銀キャップを務めたほか、欧州、米国、アフリカ、中東、アジア諸国を取材。英国・サッチャー首相、中国・李鵬首相をはじめ多くの首脳と会見。東京都日中友好協会特任顧問。時事総合研究所客員研究員。著・共著に「中国危機ー巨大化するチャイナリスクに備えよ」「寡占支配」「外国為替ハンドブック」など。趣味はマラソン(フルマラソン12回完走=東京マラソン4回)、ヴァイオリン演奏。
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