Record China 2019年3月4日(月) 23時30分
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華字メディア・日本新華僑報網は4日、復旦大学歴史学部の馮教授による「日韓関係はなぜ歴史の宿怨から逃れられないのか」と題するコラムを掲載した。写真は三・一独立運動の記念集会。
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華字メディア・日本新華僑報網は4日、復旦大学歴史学部の馮●(フォン・ウェイ。●=王へんに偉の作り)教授による「日韓関係はなぜ歴史の宿怨から逃れられないのか」と題するコラムを掲載した。
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馮教授はまず、「現在、日韓関係に影響を与えている一連の問題は、結局のところは解くことが難しい“歴史”の問題だ」と指摘する。
その上で、「朝鮮半島占領は、数百年前から日本の国策だった。1592~1598年、豊臣秀吉が朝鮮侵略戦争を発動。当時、日本軍が朝鮮半島で行ったことは、日本の従軍僧の慶念の『朝鮮日日記』にも『見たこともない凄惨さ』と記されている。さらに、豊臣秀吉の命の下、日本軍は残虐非道な鼻削ぎの悪行を行った。ある統計では、2万人近くの朝鮮人の鼻をそぎ落としたとされている」と紹介した。
続けて、「300年ほど後、日本の朝鮮侵略の野心が再び膨張した」とし、1875年9月20日に発生した、日本の雲揚号が朝鮮軍と衝突した江華島事件を紹介。同号の艦長だった井上良馨の「探水あるいは請水のために江華島に向かっている途中、島に設置された砲台から砲撃を受けた」との説明について、「信じられるかどうかは別にして、当時は弱肉強食の植民主義時代。日本は朝鮮が信じるかどうかは関係なく、ただ説き伏せればいいだけだった」とした。
また、1876年の日朝修好条規の第一款に「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国家と認める」とあったことに触れ、「実際は、『朝鮮が日本と平等の権利を有する』などということがあり得ただろうか。これは、日本が朝鮮を中国の藩属国から切り離すための第一歩だった。日清戦争後、日本が締結を迫った下関条約で『朝鮮は完全無欠なる独立自主の国であることを確認』とされたことから、当時の意図は明らかだった」と論じた。
馮教授はさらに、1905年11月17日に日本が「(第二次)日韓協約」の締結を迫り、現在のソウルに朝鮮総督府を設置したこと、1910年8月22日に韓国を併合したことなどを説明し、「朝鮮を占領した後、日本は同化政策を強行。しかしその後、朝鮮内外でさまざまな形の独立運動が絶えず起きた。そして、1919年3月1日にあの運動(三・一運動)が発生。独立の目的は果たせなかったが、日本の統治者に力を見せつけ、『武断的な統治』から『文治的な統治』への転換を迫ることになった」とした。
そして、「戦後、朝鮮は独立を勝ち得たが、朝鮮半島は38度線によって2つの国に分けられた。さかのぼれば、近年、日本が防衛白書で必ず挙げる核の脅威を最初につくり出したのは、ほかならぬ日本自身だ」と主張した。(翻訳・編集/北田)
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