如月隼人 2019年9月23日(月) 15時30分
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1543年9月23日、種子島に一隻の外国船が漂着した。同船は日本に鉄砲を伝えたことで知られるが、欧州で作られたものでなく、アジアで改良されたタイプとされる。写真は中国で17世紀に書かれた「軍器図説」に掲載された鉄砲の図。
1543年9月23日(天文12年8月25日)、種子島に一隻の外国船が漂着した。中国船だったとされている。船にはポルトガル人が2人乗っており、鉄砲を持っていた。領主の種子島時堯は大金を支払い鉄砲2丁を買い求めた。
中国では火薬が10世紀初頭には知られていたとされる。火薬を利用して銃弾や砲弾、場合によっては矢を高速で発射する「火器」は、宋代(960-1279年)の中国で発明されたとされる。
中国起源の火器は、イスラム圏経由で欧州にも伝わった。欧州では火器の改良が進んだ。16世紀に南欧で開発された瞬発式火縄銃はポルトガル人により東南アジアに伝わり、さらに改良され「マラッカ式火縄銃(マラッカ式銃)」と呼ばれるようになった。種子島に伝わったのはマラッカ式火縄銃だった。
火縄銃には「緩発式火縄銃」という種類もある。マラッカ式など瞬発式火縄銃には、命中精度が高い特徴があった。一方で、緩発式火縄銃は引き金を引いてから発射までに多少の時間が必要で命中精度も劣るが、一方では暴発の危険が少なく、火縄をつけたまま持ち歩ける長所があった。
世界的に見れば瞬発式火縄銃が流行した時期は短かったが、日本では瞬発式火縄銃が定着した。
種子島時堯は、ポルトガル人から鉄砲の製法も教わった。鉄砲の製法は根来(現、和歌山県)や堺に伝わり、日本は短期間で「世界で最も多く鉄砲を生産する国」になった。日本がちょうど「戦国時代」で、有効な武器に対する需要が高かったことや、武器や農具の生産のために鉄の加工技術が高かったことなどが原因とされている。
なお、戦死者や負傷者などの記録を分析した結果、鉄砲伝来以前に戦いで最も重要な武器は「弓矢」だったとの研究がある。槍で相手の隊列を崩したり、一騎討で敵を撃ち取る場合も、「矢戦(やいくさ)」を盛んに行って、敵に大きな損害を与えてからの行動だったという。とすれば、「飛び道具」の一種として銃の使用が急速に広まったのも、自然な流れだったということになる。
日本以外では大砲も大いに広まったが、日本では攻城戦の一部で用いられた以外に、野戦ではあまり使用されなかった。当時の大砲は砲弾に炸薬が込められていなかったので、城郭などの構造物を破壊する以外には砲撃の威力を広範囲に及ぼすことができず、起伏の激しい日本の地形では、大砲の移動も困難だったからとされる。
種子島への鉄砲伝来を1543年9月23日とするのは、1606年に著された「鉄炮記」にもとづくものだ。ポルトガルやスペインにも記録があるが、1542年や1544年とされている。ただし、欧州の研究者も「鉄炮記」の詳細さを評価しており、また、ポルトガル人による鉄砲伝来の年が多少前後しても、歴史の流れの理解には影響がないことから、大きな論争にはなっていないという。
種子島への鉄砲伝来以前にも、倭寇などによりさらに古いタイプの鉄砲が日本に伝来していたはずとする主張もある。ただし、その後の日本の歴史に最も大きな影響を与えたのは種子島への伝来とする見方が優勢だ。
■筆者プロフィール:如月隼人
1958年生まれ、東京出身。東京大学教養学部基礎科学科卒。日本では数学とその他の科学分野を勉強し、その後は北京に留学して民族音楽理論を専攻。日本に戻ってからは食べるために編集記者を稼業とするようになり、ついのめりこむ。毎日せっせとインターネットで記事を発表する。「中国の空気」を読者の皆様に感じていただきたいとの想いで、「爆発」、「それっ」などのシリーズ記事を執筆。中国については嫌悪でも惑溺でもなく、「言いたいことを言っておくのが自分にとっても相手にとっても結局は得」が信条。硬軟取り混ぜて幅広く情報を発信。 Facebookはこちら ※フォローの際はメッセージ付きでお願いいたします。 ブログはこちら
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