工藤 和直 2019年11月30日(土) 5時0分
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斉は春秋時代に長城を築いていた。北と東は海に面し、北西は黄河と済水とが天然の障壁となっていたのが、西は春秋時代には魯・晋・衞の脅威にさらされ、戦国時代は南の楚国の圧迫があった。
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紀元前1050年頃、周王朝「武王」は、兄弟を魯・燕・曹・衛・管・蔡などの国々に配置、山東省「斉」には妻の実家である太公望「呂尚」、本姓姜氏を配置した。この斉国が春秋時代の最初の覇王となるのは、太公望「呂尚」の16代目の君主「恒公」とその宰相「管仲」の力による。紀元前656年、恒公は諸侯の連合軍と楚を巨従させ、紀元前651年には、魯・宋・曹・衛・鄭と葵丘で会盟し、覇王となった。
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斉は春秋時代に長城を築いていた。北と東は海に面し、北西は黄河と済水とが天然の障壁となっていたのが、西は春秋時代には魯・晋・衞の脅威にさらされ、戦国時代は南の楚国の圧迫があった。そこで斉は、西は黄河のほとり長清県孝里鎮から泰山の北を通り、曲阜北部莱蕪、諸城、膠南、青島市西部「黄島」に至る620km余に及ぶ長城(まさに千里の長城)を築いた。斉の長城は秦始皇帝の築いた万里の長城より500年も古い中国最古の長城であった。青島珠山国家森林公園内に長城跡を見る事ができる(写真1)。
呉は常に楚と戦っていた。楚は中原の晋と戦い、晋は東方にある斉と戦っていた。晋が斉を攻めれば楚が救援する。呉は晋と手を結び強国になった。斉と楚は仲の良い関係を構築していたため呉王“闔閭”が宰相“伍子胥”、軍師“孫武”と考えた策は、斉の姫君を太子“波”に嫁がせる事であった。楚と斉の関係に楔を打ち込むためだ。時の斉「景公」は姫を呉に入輿させ、太子“波”の妻とした。
この姫君は非常に美貌であったという。春秋時代、斉都「臨淄(りんし)」は周都「洛陽」を凌ぐ大都市であった。しかし、呉都「姑蘇」の地は田舎臭く、姫は日夜悲泣したという。闔閭は姫のために北門(斉門)に九層の高楼を建て、「国が恋しくなれば、高楼から故郷を望見すれば良い」と慰めたが、ついに病気になり亡くなった。この北門の事を「望斉門」ともいう(写真2右)。太子“波”はこの姫をたいそう愛していたため、その死を悼むこと一方ではなかった。やがて太子“波”も病気になり、一年後に後を追うように夭折した。そのため、太子は次男“夫差”となった。
斉の姫君は人質に近い状態で“波”の妻として700kmも真南の国に嫁いだ。斉都「臨淄(現在の淄博市)」から斉の長城を越えて来たわけだ。いったん長城を越えることは二度と斉には戻ることはない。非常につらい数カ月の道中であったろうと想像される。姫が最後に見たであろう長城はどこであったのか、臨淄の南「青石関」と推測される(写真2左)。
斉の姫が登った斉門は現在なく、蘇州駅に向かう大道と大橋があるだけである。ただ、山東には山並みをつなぐ石を置いた長城跡が残っている。青島(黄島経済技術開発区)にある斉長城烽火台跡は東端の終点である。斉長城路の端に烽火台が再建された(写真3)。ここから西の方角を見ると、夕日に映える山岳がはるか遠く美しく続いている。斉の公女が長旅に疲れ、蘇州に辿り着いて2500年以上になった。今、斉門から見える風景は高層ビルやアパートであるが、50年前までは広い田畑が見えるだけであった。そのはるか遠くに斉国があった。今では蘇州から高速鉄道を使い5時間半ほどで斉都「臨淄」に着く。
■筆者プロフィール:工藤 和直
1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。
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