<羅針盤>漢詩に託した「戦後総決算」=中曽根元首相の思い出―立石信雄オムロン元会長

立石信雄    2019年12月1日(日) 5時0分

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「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄民営化など行政改革で名を残した中曽根康弘元首相が101歳で亡くなられた。私は財界団体に関わり経済同友会や経団連の委員などを務めていたので、中曽根氏の謦咳(けいがい)に時折触れることができた。写真はJR東海の新幹線。

「戦後政治の総決算」を掲げ、国鉄民営化など行政改革で名を残した中曽根康弘元首相が101歳で天寿をまっとうされた。

中曽根氏が首相に就任した1982年。日本は当時世界第2位の経済大国となり、戦後のピークを迎えていた。政権発足に際して「戦後政治の総決算」のスローガンを掲げ、内政では、行政、税制、教育の3つの改革を目指し、国鉄や電電公社の民営化行革で大きな成果を残した。

当時、私は財界団体に関わり経済同友会や経団連の委員などを務めていたので、中曽根氏の謦咳(けいがい)に時折触れることができた。

 

官主導のシステムは戦後30年以上経過、行政の肥大化が顕著になり、改革は時代の要請でもあった。英国のサッチャー首相、米国のレーガン大統領が、民間の自由な活力に任せて経済成長を促す「新自由主義」を推進、日本もこの潮流に乗った。

質素な生活ぶりで「めざしの土光さん」と国民に親しまれていた土光敏夫元経団連会長に、行革を推進する臨調(臨時行政調査会)会長就任を要請したのも、中曽根氏の慧眼だと思う。国鉄、電電公社の分割民営化で、総評傘下の有力労組は弱体化した。55年体制崩壊への糸口を作ったのは行革だったといえる。

新自由主義はバブル経済への道を開き、その後の「失われた20年」につながったとの批判もあるが、民間活力重視の流れは、小泉純一郎安倍晋三両内閣の経済政策に引き継がれていると思う。

戦後保守政党で小派閥の中で自らの理想を推進、「信念の人」との印象が強いが、時に応じて柔軟に対応するリアリストでもあった。大型間接税「売上税」構想を鳴り物入りでぶち上げたものの、国民的な抵抗に遭ってあっさり取り下げ、後継首相として指名した竹下登首相に託し、「消費税」実現につなげた。

中曽根氏は、得意とする語学を駆使し、レーガン米大統領、全斗煥韓国大統領、中国共産党の胡耀邦総書記らとの首脳外交を展開、日本の外交力をアピールした。自らの靖国神社参拝で胡耀邦氏が窮地に陥っていると見るや、その後靖国参拝を自制した。

中曽根氏は無類の読書家で、マックス・ウェーバーやカントを読むだけでなく漢文にも親しんだ。漢詩にも造詣が深く、多くの揮毫を我々経済人もいただいた。「十年磨一剣」は唐の賈島の剣客詩で、十年一剣を磨く、と読む。長い間腕を磨いて時期を待つ、というのは努力して総理になる日に備えた中曽根氏の気概を如実に表したものであろう。

「老羈伏壢 志在千里 烈士暮年 壮士不已」。これは「老羈は壢に伏し 志は千里にあり 烈士暮年 壮士已まず」と読むという。魏を建国した三国志の英雄、曹操の詩だ。「老いた馬は厩につながれていても志は千里を走る。歳をとっても士たる者の気概は失せるものではない」といった意味である。中曽根氏は三国志の記す歴史を振り返りながら政局の攻防に対処したのであろう。

中曽根氏は青年時代から総理を目指し、自己を抑制してきた人。大きなスキャンダルにつながるようなトラブルはほとんどなかった。「戦後日本の生き証人」とでもいうべき偉大な存在だったと思う。

<羅針盤篇49>

■筆者プロフィール:立石信雄

1959年立石電機販売に入社。1965年立石電機(現オムロン株式会社)取締役。1995年代表取締役会長。2003年相談役。 日本経団連・国際労働委員長、海外事業活動関連協議会(CBCC)会長など歴任。「マネジメントのノーベル賞」といわれるSAM(Society for Advancement of Management)『The Taylor Key Award』受賞。同志社大名誉文化博士。中国・北京大、南開大、上海交通大、復旦大などの顧問教授や顧問を務めている。SAM(日本経営近代化協会)名誉会長。エッセイスト。

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