<コラム>金敬姫に影武者説

木口 政樹    2020年2月12日(水) 23時40分

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死亡したと考えられていた金敬姫元労働党秘書が6年ぶりに公の場に現れたことについて、影武者だという視角もあるようだ。肝をつぶすくらいびっくりしたけれど、根拠のほどがしっかりしている。写真は北朝鮮。

1月31日号で、死亡したと考えられていた金敬姫(キム・ギョンヒ=金正恩の叔母)元労働党秘書が6年ぶりに公の場に現れたことについて、元英国駐在北朝鮮公使のテ・ヨンホ(太永浩)氏のブログなどをもとに書いた。結論としては、金敬姫毒殺説を払拭するために、金正恩がわざと金敬姫(叔母)をみんなの前に出し、「ほら、元気で生きてますよ」とアピールすることで、自分(金正恩)はそんなに悪辣な人間ではないですよと大向こうを納得させるべく、金正恩一流の小細工をやってのけたのだ、というものだった。

ネットによると、今回登場した金敬姫氏は本物ではなくて影武者だという視角もあるようだ。筆者としては肝をつぶすくらいびっくりしたけれど、根拠のほどがしっかりしている。今回のコラムではこのネットの文章(JBpressの朴承[王民]氏)を土台としながら筆者のことばでお届けしたい。

朴氏によると、影武者説を主張するのは、元北朝鮮の高官である李正浩(イ・ジョンホ)氏。この人は、朝鮮労働党中央委員会(党本部)で数十年間勤務し、金一族の資金管理を担当する労働党39号室課長や、外貨稼ぎのための会社「大興総会社」大連支社長などを歴任し、2014年に韓国に亡命している。

李正浩氏の話が続く。「金正恩が金敬姫を殺害し、金敬姫の側近をすべて処刑した。私はそのことに衝撃を受け亡命を決意した。当時平壌では、幹部の間でこのこと(金敬姫氏殺害)は秘密でもなんでもなかった。中央機関と党本部に話が伝わっていた」

さらに証言は続く。「金氏が殺害された日時は2014年5月5日だ。この日は、国家安全保衛部(現在は国家安全保衛省。以下、保衛部)の大会があった。張成沢氏を処刑した後、保衛部を激励するための大会だ。そこに金正恩も出席する予定だったが、姿を現さなかった。地方保衛部からも部員がやってきていたし、幹部全員が参加して金委員長と記念撮影することになっていたのでみな浮かれていたのだが、金委員長は最後まで来なかった。そのため、金元弘(キム・ウォンホン)部長が機転を利かせ、集まった要員たちに金委員長に宛てて『忠誠の手紙』を書かせた。4.25文化会館に集まった保衛部要員の3000人全員が忠誠の手紙を書いた。それで仕方なく金委員長は金元弘部長に返事をした。金委員長は、『金敬姫書記が死んだので自分は大会に出場できないのだ』と言った。それを聞いた金元弘部長が金委員長の『お答え』を保衛部幹部と局長級に伝えたのだ」。

李正浩氏は後日、その話の内容を保衛部幹部の友人から聞いた。また974部隊(金正恩委員長の護衛部隊)の友人にも確認したという。

韓国の一部のメディアは、「2013年12月、張成沢氏が処刑された当時、張氏と金敬姫氏は離婚していたので、夫人の金氏が夫・張氏の処刑を了承した」と報道していた。だが実際には、張氏夫妻は離婚していなかったし、金氏は夫・張氏の処刑の動きに強く反発していた。夫の処刑を了解したという当時の報道は、北朝鮮当局が流したフェイクニュースだった可能性が非常に高い。

では、金敬姫氏はなぜ毒殺されなければなかったのか。それにはこうした経緯があるという。保衛部などが張成沢氏を逮捕しようとしたが、金敬姫氏と一緒に住んでいる自宅での逮捕が容易ではなかった。このような空気を掴んだ金敬姫氏が、当時の実力者のチョ・ヨンジュン労働党組織指導部第1副部長とキム・チャンソン書記室長(金正恩委員長の秘書室長)に対して、夫・張氏を害しないようにと注意をした。この幹部らが金敬姫氏の意見を報告すると、金正恩委員長は「組職指導部は『張り子の虎』だな」と言った。それは、組職指導部が張氏が恐ろしくて処理できずにいるという皮肉とともに、張氏の排除を命令する言葉だった。

金敬姫氏は、張氏の処刑後に平壌から遠くない招待所で監禁状態におかれ、持病の治療を受けていた。このとき、夫・張氏を無慈悲に処刑したことへの不満から、金正恩委員長に対する悪口を言い続けていたという。これを聞いた最高指導部からついに指示が下された。「これは金正恩委員長の権威を傷つける行為だ」とし、金敬姫氏は薬物注射で毒殺された。その後、北朝鮮指導部から労働党の担当部署に金敬姫氏に関するすべての記録を削除するよう指示され、記録映画、出版物などに出ている金氏に関するすべてが削除された。このような措置は、これまで反党・反革命分子へのみなされてきたものと同じであった。

だからこそ李正浩氏は、今年1月25日の三池淵劇場での記念公演に出ている金敬姫氏を見て、「金敬姫は偽物だ。死んだ人は絶対戻って来られない」と言ったのだ。2015年5月に李正浩氏は、米CNNとのインタビューで金敬姫氏が毒殺されたという事実を証言しているのだけれど、その確信は現在も揺らいでいないようだ。

では、北朝鮮の指導部は、死んだはずの「金敬姫」をなぜ今になって表舞台に引っ張り出したのだろうか。

いま北朝鮮は、国連と米国の制裁で経済的に相当な苦境に立たされている。そこで国民の不満を鎮めるため、「白頭血統」の結束を示す必要から、金敬姫氏を登場させたのだ、との解釈もなされている。

だが、また別の脱北者であるエリート層のある人物は、これとは別の見方を示す。「金敬姫がまだ健在であることを北朝鮮国民に見せた後、『病死した』と発表し、国葬を行うためのトリックではないか。おそらくまもなくその(虚偽の)葬儀があるだろう」と予想する。つまり、金氏の毒殺説を覆すためのニセモノの葬儀を近く実施するだろうけど、金敬姫の登場は、そのための準備過程の一部だろうというわけだ。金正恩委員長は、叔父や叔母を殺した冷血漢のイメージを返上したがっている。「叔父を高射砲で処刑し、叔母を毒殺したという破倫児(パリュンア=人倫に外れた悪人)の印象から脱するために、金敬姫の影武者を立てたのだろう。だが今回の件は、むしろ破倫児のイメージを国民に思い起こさせることになるかもしれない」(エリート脱北者)

また健康状態も、以前の金敬姫氏を知る人からすれば首を傾げたくなるようなものだった。金敬姫氏はずっと前からアルコール中毒かつ心筋梗塞や糖尿病などさまざまな病気も患っていたので“総合病棟”と呼ばれていたほどだ。6年前に金敬姫氏が姿を消す直前には、顔もだいぶ痩せ一目で病状の重いことが分かるほどだった。しかも移動には車椅子を使わなければならなかったのだ。

ところがあれから6年後に現れた金敬姫氏は、顔色も良く顔に肉も付きかくしゃくとしていていかにも健康そう。金敬姫氏は1946年生まれだから、今年で74歳になる。果たして人間、本当にあそこまで健康状態が回復されるものなのか。

今回の金氏の登場にもっとも驚いているのは、実は北朝鮮幹部らだろう。記録映画などですでに彼女の痕跡は消されているので、処罰されたことは明白だし労働党幹部ならば、金氏が「毒殺された」ことは皆知っている事実。最近、北朝鮮当局は経済事情の悪化で、朝鮮労働党中央委員会(党本部)幹部たちと内閣の幹部たちへの月給と配給を負担する余力がないためか、人員を3分の2に縮小し、3分の1の人員を地方に降格しているという。言ってみれば「地方に行って自分の力で暮らせ」ということだ。そうした中での、“ニセ金敬姫”の登場だ。北朝鮮幹部たちは、じっと息をひそめだしたという。またもや粛清の血しぶきが飛びかうのではないか、という恐怖に震えながら。

近々、金敬姫の国葬があれば、エリート脱北者の「予言」は的中!ということになる。はたしてどうでるか。いずれにしても、6年ぶりの金敬姫氏の登場にはかなりの意味が潜在していることだけは間違いないもののように思われる。今後の北の動静にまたまた注目だ。

■筆者プロフィール:木口 政樹

イザベラ・バードが理想郷と呼んだ山形県・米沢市出身。1988年渡韓し慶州の女性と結婚。元三星(サムスン)人力開発院日本語科教授、元白石大学校教授。趣味はサッカーボールのリフティング、クラシックギター、山歩きなど。著書に『おしょうしな韓国』、『アンニョンお隣さん』など。まぐまぐ大賞2016でコラム部門4位に選ばれた。

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