<コラム>司馬遼太郎「街道を行く」、蘇州に残る梲建造物を探して

工藤 和直    2020年1月20日(月) 23時0分

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司馬遼太郎「中国・江南のみち」の中に「蘇州には私が見た範囲ではウダツは見あたらなかった。杭州に行けば、市民の民家にウダツがみられるのでないか、というのが私の予感であった」と書いてある。

1987年に初めて蘇州に来てから30年が過ぎ、蘇州高新区に12年間住んだ。その時に蘇州の事を少しでも知ろうと再読したのが、司馬遼太郎「街道を行く:中国・江南のみち」である。87年当時、小生の蘇州に関する知識はこの本から得たものだけであった。司馬遼太郎の1981年2回目の蘇州訪問時の記録でもある。司馬先生は春秋時代の東門は葑門(Feng-Men)としているが、それは間違いで、葑門はその後の戦国時代に出来たと分かった時、少しだけ優越感を感じたものだった。

司馬遼太郎「中国・江南のみち」の中に「蘇州には私が見た範囲ではウダツは見あたらなかった。杭州に行けば、市民の民家にウダツがみられるのでないか、というのが私の予感であった」と書いてある。司馬先生はここ蘇州に来て梲(ウダツ)を探そうとしたが、無かったようだ。“うだつが上がらない”という言葉がある。金銭に恵まれないとか良い境遇になれないという世俗的な言葉で、関西では裕福な家は隣家との境に漆喰の防火壁「うだち」があり、これが転じたといわれる。

司馬先生が宿泊した蘇州飯店(十全街345号)の周囲に本当に「うだつ」のある家がないのかと、探索した。民国時代から蘇州飯店の南側は桑畑で商家はない。司馬先生が歩いた十全街は長屋式のショッピング街に改装されていたので、うだつはない。ところが、十全街に沿う運河を渡った北側に呉衛場があるが、ここから第10中学に至る帯城橋下塘街路に、うだつのある民家が多く見られた。見た場所が悪かっただけだ。

蘇州城内を歩くたびに、「うだつ・うだつ」と上を見て歩くと結構あるもので、“司馬先生どこを見てたのかな”と思えるくらい「うだつ」のある家々に遭遇した。(写真1上右)のように普通の街路にあるもの、(写真1下右)のように寺門前の土産物店の屋根、などである。ただ現在、蘇州市街地は古い家が建て替えられて、(写真1上左)のような大きな「うだつ」のある古い家が取り壊される状況にある。そういう意味で、「うだつ」はだんだん見られなくなる建築物になりつつある。

「江南のみち」の中に日本語通訳として司馬遼太郎を補佐した「呉少媛」女史が出てくる。“目鼻のくっきりした浙江顔の美人である”と説明書きがある。その後、蘇州大学に日本語学科が設立された時に呉女史は教鞭を取り、日本語に堪能な多くの学生を育て上げた。筆者が蘇州に駐在したのは2003年からであるが、その時に蘇州大学日本語学科を卒業した多くの方が日系企業や蘇州市政府関係に勤め、我々日系企業2000社が進出する際に中心的な役目を果たした。司馬先生の話をするたびに、呉先生の厳しかった日本語教育姿勢について話す元教え子達の顔に誇りが感じられたものだ。蘇州大学は西暦1900年に創立した東呉大学を前身とするが、江蘇省では最も長い歴史を持つ大学である。

■筆者プロフィール:工藤 和直

1953年、宮崎市生まれ。1977年九州大学大学院工学研究科修了。韓国で電子技術を教えていたことが認められ、2001年2月、韓国電子産業振興会より電子産業大賞受賞。2004年1月より中国江蘇省蘇州市で蘇州住電装有限公司董事総経理として新会社を立上げ、2008年からは住友電装株式会社執行役員兼務。2013年には蘇州日商倶楽部(商工会)会長として、蘇州市ある日系2500社、約1万人の邦人と共に、日中友好にも貢献してきた。2015年からは最高顧問として中国関係会社を指導する傍ら、現在も中国関係会社で駐在13年半の経験を生かして活躍中。中国や日本で「チャイナリスク下でのビジネスの進め方」など多方面で講演会を行い、「蘇州たより」「蘇州たより2」などの著作がある。

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