<コラム>日本の歴史には裏に必ず中国とのご縁がある

龍一清    2020年9月3日(木) 22時20分

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関東のとある市の姉妹都市に関連して、調べてみると面白い中国が沢山出てきて、日本の歴史には裏に必ずといっていいほど中国とのご縁が潜んでいる。写真は杭州市。

関東のとある市の姉妹都市に関連して、調べてみると面白い中国が沢山出てきて、日本の歴史には裏に必ずといっていいほど中国とのご縁が潜んでいる。以下は、その姉妹都市に関して感じた中国のご縁をご披露したいと思っている。

姉妹都市のそれぞれとは、色々ストーリーがあると思うが、大変身近なものが沢山あるので少々驚いている。以下、最近私が感じた「中国とのご縁」についてご紹介させていただく。

皆さんは、毎日食事をしていますが(最近は種類が増えている)、昔から食べている「お米」について、何か感じることがありませんか?ごはんといえば、当たり前のように「お米」であった。私も畑をしていますが、雑草取りとの戦いでいつも大変な目に合っている。畑仕事は、「雑草との闘いである」と言った方もいる。その中で、「たんぼ」は、水耕栽培で雑草を防ぎ、連作障害もなく毎年同じ田んぼで「お米」がとれるという、目から鱗の当時の最先端技術であった。

では、その水田稲作の起源はというと、約1万2000年前、長江中流域の「江西省仙人洞遺跡」などから、稲の栽培種のプラントオパール(稲花粉の化石、旧石器時代は野生種の花粉化石)が出土して稲作のあったことが証明された。これは、新石器時代を告げることになったという、諸説あるが農協中央会の研究資料により、長江中・下流域に広まった事を知った。

その後、某市日中友好協会代表団の一員として、浙江省余姚市「河姆渡遺跡(約7000年前の稲作遺跡)」を視察し、高床式の建物遺跡などを見学した。杭州市西湖孤山の省博物館にて、河姆渡の「炭化米」や陶器など出土品を参観した。本年5月30日、河姆渡遺跡の近くで更に1000年古い貝塚遺跡の「井頭山遺跡」の存在が正式に発表された。

杭州市内では、5000年前の玉の精密彫刻で有名な「良渚博物院」を参観した。以前訪れた「良渚博物館」時代には、正面ロビーに漢字の起原ともいえる記号をはめ込んだ壁があった。現在の展示場は巨大で、等身大の再現像を通して、当時の豊富多彩な生活ぶりが偲ばれる。神と一体化した王のような存在と、祭儀跡まで発掘したとの記録があった。

時代は変わり、その後の水稲稲作の民は、呉越の戦いで青史に登場する。勝者の越王勾践は、BC468年海岸伝いに水行山東半島の瑯琊に進出した。稲作の安定した富の蓄積により、中原に覇をとなえることが可能となったとのこと。(池橋宏氏「稲作渡来民」より)BC334年に楚に敗れ、越(船の使い手)は東海の浜に逃げ延びて四散する。(百越とよばれる小国に分散したといわれる)一部が山東半島より朝鮮半島(韓半島)西南部にたどり着き、稲作を錦江(白村江)、栄山江(周辺に前方後円墳14基もある)、洛東江などの河川に沿い水稲稲作遺跡(松菊里など)が存在する。つまり、池橋氏(「稲作渡来民」の作者)は、稲作技術と操船技術に長けた「越民」が山東半島経由で、日本の九州北部(板付遺跡)山陰(原山遺跡)北陸辺りまで渡来したとの説を展開している。

私は、この本を読んで得心するところが多く、「徐福東度」の伝説中に徐福は徐国の皇族であったとの話があり、航海技術の高い「越族」であれば波頭を越え、稲作技術をもって航海し、「平原広澤を得て王となりて戻らず」との司馬遷史記の「秦始皇帝本紀」にある内容が理解できた思いがした。実際に、韓国では泰安半島近くに平原市が存在し、佐賀徐福会の方々は、佐賀平野が平原広澤の地であると言っていた。(ちなみに、日本徐福会の会長は神奈川県日中友好協会の会長である)

さらに、操船技術の巧みな稲作渡来民によって、縄文時代が終息し弥生時代を招いたものは、稲作技術を持った「越」の末裔であり、骨相までも変わってしまったとのことである。

縄文人の特徴は、短躯、鼻高、丸顔、頭大きく、えら発達、歯のかみ合わせ良いに対して弥生人は、長身、鼻低、長顔、頭小さく、えら未発達、歯シャベル状で少し出ているなどの違いがある。

以上、前置きが大変長くなったが、日本人の源郷は、稲作技術と操船技術の巧みな中国「越」ではないかという池橋氏の著作に、これまでもやもやしていたものがすっきりとした気がした。我々は、この日本人の故郷ともいえる杭州市と友好姉妹関係を保っていることに、より一層誇りを感じた次第である。

また、韓半島経由であることも「ご縁」を感じ、もう一つの姉妹都市である統營市について調べてみると、統營とは秀吉の「朝鮮出兵、文禄・慶長の役」の時代に活躍した将軍「李舜臣」の今でいう司令部という意味であり、合併前の忠武市の「忠武」は李舜臣の諡(おくりな)であった。李将軍は、4人兄弟の3番目で中国古代の創世神話の伏羲から長男李羲臣、帝堯の次男李堯臣、帝舜の三男李舜臣、帝禹の四男李禹臣と名付けられ、ここでも中国との「ご縁」は尽きない。彼は、加藤清正軍への攻撃命令に従わないとの理由により死罪となったが、高官のとりなしで一兵卒となり、再度水軍司令官として成果を上げ、最期は露梁海戦にて戦死し死後に贈られた諡が「忠武公」とのこと。日本との「ご縁」を感じる。また、慶長の役最大の順天城の戦いで明水軍を率いた総兵陳璘の出身は韶関市で、杭州をこよなく愛した北宋の官僚・詩人「蘇東坡」が流人として初めて越えた峠が「韶関」(六祖慧能の袈裟の故事の現場としても有名)であった。蘇東坡は、その才能をねたまれ無実の罪で広州のはずれに流罪される際、この地を通った(これまで高官の流罪地は都近くであったが、蘇東坡から遠隔地流罪が始まった)。ここでも杭州との関係が、ちょっと強引かもしれないが感じられた。1276年元に滅ぼされた南宋は、元寇(文永の役1274年)弘安の役1281年の際、江南軍として3500艘の軍船と10万水兵として参戦し失敗した。三度目の計画では、倍増の戦力で日本を滅ぼした後、南宋に統治を任せることになっていたそうである。そうなれば、杭州の人々の下で暮らすことになったわけで、「たられば」は無いが危ういことであった。

結局私が何を言いたいのか、前置きが長く分かりにくいと思うのでまとめると、日本と中国、韓国は、稲作文化を同じくし、文字、陶器、鉄器、牛馬、船、人など生活に係るもの一切が、中国由来であることに今更ながらに気づかせられたということ。

特に某市は、中華文化圏の中心である南宋の都「杭州市」及び、古代より稲作などで日本に関係の深い韓半島南部の「統營市」と姉妹都市として、交流を深めてきた。今後は、これらの国・地域の歴史文化を市民の方々に良く知ってもらう努力を更に進め、具体的な市民交流を実現すべきであると思う。それにより、現今の「自国ファースト」というアンチグローバルな風潮を打破し、地球家族として未来の子供たちが活躍できるよう、その土台作りをなすべきである。折角の「ご縁」を大切にし、国際交流が町おこしに役立つと信じている。

国内姉妹都市の「越後」の津南町も米どころであり、杭州市は「越」の都で河姆渡の炭化米は、西湖の博物館に展示されている。米を通じた「ご縁」、またさらに「お茶」を通じた杭州市の龍井茶と、狭山茶の栽培問い合わせから始まった忠武市の「ご縁」など、皆さんにお伝えしたいことは沢山あるので、是非とも若い方々にお話したい。

■筆者プロフィール:龍一清

1948年生まれ。東京出身。亜細亜大学卒。中国へは1973年以来約400回訪れ、全省自治区に足を踏み入れた。北京には、2013年から事務所ビルとマンションの管理、営業で約2年駐在。旅行会社に30年余り務め、取締役や社長を歴任。さらに、県日中友好協会事務局長、日本蘇頌研究会事務局長、日中友好宗教者懇話会理事、日中協会諮問委員、市日中友好協会副理事長、元日中旅行社執行役員などの経歴を持つ。

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