<印「タタ・グループ」の実像(上)>年間売上20兆円、ルーツは綿花・アヘン・茶・香料貿易

中村悦二    2022年3月3日(木) 7時20分

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インドのタタ・グループの持株会社であるタタ・サンズの会長にナタラジャン・チャンドラセカランが再選された。

インドのタタ・グループの持株会社であるタタ・サンズの会長にナタラジャン・チャンドラセカランが再選された。タタの名は日本でも知られているが、上場企業29社(2021年末現在)を含め100社近い企業を擁し、年間売上高1300億ドル(19兆5000億円)超の同グループがインドにあって異色の企業グループであることはあまり知られていない。

タタ一族が保有するタタ・サンズ株式は全体の数パーセントに過ぎず、株式の66%を所有するのは創業以来一族の有力者が設けた社会貢献財団の集まりであるTata Trust(タタ財団)だ。タタ財団会長のラタン・N・タタは85歳と高齢のため、その次期会長指名も注目されているが、現地紙報道(タイムズ・オブ・インディア2022年2月14日付電子版)によると、タタ・サンズは、同社とタタ財団の会長職兼務を禁ずる決議を行ったという。

イスラム勢力が侵入するササン朝ペルシャを逃れ、8-10世紀にインド亜大陸の西海岸に居住を許されたパールシー(ゾロアスター教徒)の一員という出自故か、インドの社会貢献に創業当初から熱心な同グループ。自らの名声保持と収益向上、それに社会貢献、今流にいうならSDGs(持続可能な開発目標)推進への貢献という目的をいかに実現していくか。タタ・サンズの決議には、創業者の直系は2代目で途切れたとはいえ「タタ」の名を存続させることは確保し、傘下企業の経営では専門経営者を活用しようというラタン・N・タタの意向がうかがえる。

渋沢栄一や日本郵船とも協力

タタ・サンズの創業は1868年だが、創業者のジャムシェトジー・タタは1859年、父親と友人が経営する貿易会社に入り、香港に駐在。インドから綿花とアヘンを中国に持ち込み、中国から茶、絹、香料など輸出する貿易業務に従事した。その後、英国に滞在し、トーマス・カーライルが「鉄を支配下に置く国家は金融をも支配下に置く」という講演を聞き感じ入っている(F. R. HARRIS、『JAMSETJI NUSSERWANJI TATA-A chronicle of his life』 、BLACKIE&SON(INDIA)LIMITED1958年刊第2版による。初版は1925年刊)。彼は来日もし、渋沢栄一と海運での綿花輸送の協力で話し合ったこともある。1893年には日本郵船がタタ商会と共同でボンベイ航路を開いている。

ジャムシェトジー・タタは綿紡織、水力発電、ホテル、鉄鉱石の採鉱・製鉄へと英植民地下の地場資本としては野心的な事業を構想・推進。英インド政庁と何回も交渉し、インド科学大学院大学(IISc)をインド政府、マイソール藩王国と共同でバンガロールに創設している。IIScは同国の最高級研究機関の一つだ。

タタ・サンズの2代目会長のドラブジー・タタは創業者の長男。父親の遺志を継ぎ、水力発電所、製鉄事業、IIScなどを始動させた。ドラブジー、若くして死去した次男のラタン・タタに子供がいなかったため、同会長はドラブジーが死去した1932年以降は傍系から選ばれることになる。3代目は、創業者の妹のビルバイジー・タタの息子であるノーロジー・サクラトワラ。セメント企業の大連合を実現したことで知られる。

4代目会長のJ・R・D・タタはジャムシェトジー・タタのいとこで盟友のラタンジー・ダダボイ・タタとフランス人の母スザンヌ・ブリエールとの間にパリで生まれた。同グループの史料館(プネ市)作成のJ・R・Dの紹介パンフレットに、J・R・DのJはペルシャ語のJehangirのイニシアルで、意味は「世界の支配者」と説明されている。タタ・サンズの会長に1938年に就任。1991年に会長職をラタン・N・タタに引き継ぐまでの長きにわたってグループを統率した。インドは独立後、混合経済モデルの経済開発へ5か年をスタートしたが、そのモデルは、1944年1月の「インドの経済開発(通称ボンベイ・プラン=15か年計画)」とされる。40歳のJ・R・D・タタが提唱し、ビルラ財閥総帥などが参画して作成したものだ。

1月末にインド政府からの買収を完了したエア・インディアはもともと、 J・R・D・タタが1932年に設立した航空会社が前身で、1953年に国有化されたものだ。国有化時のネルー首相は彼にエア・インディアの会長職続行を要請。彼は無給でこれに応じた。

◆有能な人材を積極登用、業容を急拡大

J・R・D・タタは創業者同様、先見性を持った経営者だった。既存のグループ企業各社の経営は見込んだ部下に任せるスタイルを採ったが、新規分野として、タタ・サンズ社内にソフトウエア開発部門を設立した。その育ての親は、タタ電力でデジタル式の送電系システム開発で実績を上げたF・C・コーリで、当初コンサルタント6名でスタート。コーリは1970年代央に「今日の産業革命は情報技術の革命」とする先見性に富んでいた。この部門が後に独立し、ITサービスの世界的企業、タタ・コンサルタンシー・サービシズ(TCS)に成長。現在、タタ・サンズを支える屋台骨となっている。J・R・D・タタはそうした有能な人材活用に長けていたようだ。商用車などにも進出し、業容を拡大した。

社会貢献では、インドの原子力開発の基礎づくりに貢献したタタ基礎研究所の設立、インド初のがん病院・研究所の設立構想、国立演劇センターの設立支援なども行っている。

J・R・D・タタは、14~15歳時、1年半を日本で過ごし、横浜の学校に通っていた。その時のことを、同グループと親しかったパールシーのジャーナリストであるルッシィ・ララのタタ・グループに関する著作の邦訳(『富を創り、富を生かす』、サイマル出版会、1991年刊)の「日本語版によせて」の中で、J・R・D・タタは「楽しい記憶」と述懐している。

(敬称略)<(下)に続く>

■筆者プロフィール:中村悦二

1971年3月東京外国語大学ヒンディー語科卒。同年4月日刊工業新聞社入社。編集局国際部、政経部などを経て、ロサンゼルス支局長、シンガポール支局長。経済企画庁(現内閣府)、外務省を担当。国連・世界食糧計画(WFP)日本事務所広報アドバイザー、月刊誌「原子力eye」編集長、同「工業材料」編集長などを歴任。共著に『マイクロソフトの真実』、『マルチメディアが教育を変える-米国情報産業の狙うもの』(いずれも日刊工業新聞社刊)。

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