<日中100人 生の声>新型コロナ禍の状況下で注力していること―田中哲二 元日銀マン・大学教授

和華    2022年3月4日(金) 21時50分

拡大

この1年半の間、筆者の関係するアジア域を中心とする国際セミナーや大学・大学院での講義はすべてオンラインシステムへ移行してしまった。写真はコロナ禍前にセミナーに参加した時。

今我が国は、昨年初から顕現化した「新型コロナ禍」がデルタ株に置き換わった感染拡大第5波のピークアウトが見えず、地域的には対応医療がし「医療崩壊」も懸念される中で、東京オリンピック・パラリンピックの安全開催という国際的な責務も課されており、歴史的に見ても複雑な「国難」を抱える形となっている。

この「新型コロナパンデミック禍」に対応する国民に必要な覚悟は、1:コロナウイルスが人-人感染である以上、一人一人が感染の媒体になる機会を厳密に回避する努力をすること(「三密回避」策は無論)、2:政府・行政当局のコロナ禍対応策には平常心をもって接し、対策実施に対する秩序ある受け入れ(例えば、コロナ接種の順番)と市民同士の「思いやりの精神」の持続が大切だと考えている。

この1年半の間、筆者の関係するアジア域を中心とする国際セミナーや大学・大学院での講義はすべてオンラインシステムへ移行してしまった。国際セミナーは聞きっぱなしでも済むが、大学の講義の方は多くの 学生を相手に全く対面の機会がないまま一方的な講義になりがちである。教育には双方向性が必要であることからすればリモート方式には限界を感じる。

筆者は、渋沢栄一翁が発起人・設立した120年以上の歴史を持つ「日本倶楽部」の役員もしている。ここでは、「コロナ感染防止策」を採ったうえで「対面方式による講演会」を継続している。筆者は講演委員としてこの1年間「中国事情」について、旧知の王敏女史、高原明生氏、川島真氏、柯隆氏等を招聘して講演会の内容拡充に努めてきている。

一方で、自宅にしている時間が圧倒的に増えていることは事実。筆者はこれまで中国・ソ連研究を通じて、ユーラシア大陸から日本を見る視線の重要性を主張してきたが、この余裕時間に、講談社学術文庫『興亡の世界史』全21巻のうちユーラシア地域を扱った10巻を読破し、改めて「目から鱗の思い」を深くしている。

結果的にいま最も注力していることは、文字ベースの各種の論説寄稿要請に極力応じて、これまでの経験から生じる見解を発信していくことであり、それも中国との深い縁を認識する一文を必ず入れることにしている。以下、2編の例を挙げる。

『岩槻市にある唐の高僧「玄奘三蔵」の仏舎利』 (群馬県太田高校「金山同窓会」会報、2020年10月)

17年間に及ぶインドへの求法の旅の後、長安の「大慈恩寺」でサンスクリット仏教典『大般若経』600巻を含む1300巻余の翻訳を終えた「玄奘三蔵」は西暦664年に遷化、長安郊外の「白鹿原」に埋葬された後、何回かの改葬を経た後、「頂骨」のみが南京の「天満寺」付近に再埋葬された。

1942年12月、南京に駐屯した日本軍工兵隊が神社建設のための整地中にこれを偶然発見し、中国側に引き渡した。中国側はこの「仏舎利」を納めるための「新堂塔」の落成式で、招聘した日本仏教会の会長にその半分を贈与。

日本に渡った「仏舎利」は米軍の空襲による焼失を回避するために、芝の増上寺、上野の寛永寺、埼玉・蕨の三学院を転々として最後に当時の日本仏教会の事業部長の寺であった埼玉・岩槻の「慈恩寺」に落ち着いて現在に至ったもの。

昭和18年初と言えば、「日中戦争」が行き詰まり、日中関係が最も険悪な状況にあったわけだが、中国仏教会は、平和への協調行動の証として大切な「玄奘三蔵」の「頂骨」を日本側に送ったのである。

我々は「慈恩寺」の「十三重の石塔(この下に玄奘頂骨)」を見る度にこのことに思いを馳せなければならない。

「渋沢栄一翁の国際的評価」(「埼玉往来」埼玉県人会会報、2021年8月)

2021年度NHK大河ドラマ「青天を衝け」の放映開始と、2024年上半期に発行される「新一万円日銀券肖像」に決定したことにより、「日本資本主義の父」としての渋沢翁の日本国内での評価は頂点に達した感がある。

20世紀後半の世界的経営学者P・F・ドラッカーが「渋沢はビジネスに儒教の道徳を注入してこれを飼いならした」と評している。私は国際化の進んだ現代においては、むしろ渋沢翁の海外での評価により注目すべきだと考えてきた。国内ではあまり知られていないが、渋沢翁は昭和元年と2年(1926・1927年)と連続で「ノーベル平和賞」に最終ノミネートされている。日露戦争後に険悪な状況が出現しつつあった日米関係(日経移民排斥運動等)を打開すべく、晩年に民間外交ベースで「日米関係委員会」(1916年)を立ち上げ、4回にわたり渡米実業団を引率して経済・文化交流を促進したほか、「日米人形交換事業(青い目の人形・市松人形)」や、オスマントルコに圧迫された「アルメニア難民」に対する義捐金の募集・寄贈等幅広い国際レベルの平和促進運動が評価されている。

一般に海外の学会では、渋沢翁は「経済・経営思想家」としては「儒商(中江藤樹等陽明学を奉じその行動を律する商業者)」の一人として位置付けられている。講演録『論語と算盤』等で示される「道徳経済合一説」は、早くから資本主義の不平等化を予想・懸念していた、アダム・スミス(英)の「道徳情操論」やサン・シモン学派(仏)の「新キリスト教経済論」に匹敵するものがある。

このように「道徳を伴った秩序ある資本主義」論に行き着いた渋沢経済・経営学の基本理念は、幼児・青年期に北武蔵の寺子屋・私塾で習得した中国に発する儒学(それも、日本文化と親和性のあった「陽明学」)の教える実業家の在り方と道徳にその出発点があることを改めて認識することも必要である。因みに、小生の実家は、渋沢翁の生家の利根川沿いの数キロメートル下流の「男沼村(現熊谷市)」の渋沢家と同様な文化的背景を持った養蚕地主であった。

※本記事は、『和華』第31号「日中100人 生の声」から転載したものです。また掲載内容は発刊当時のものとなります。

■筆者プロフィール:田中哲二(たなかてつじ)


元日銀マン・大学教授。1942 年埼玉県生れ。1967年日本銀行入行、約30年間勤務。1993年日銀参事・考査役からIMF・日銀の派遣でキルギス中央銀行最高顧問、同大統領経済顧問およびカザフスタン経済予算大臣・文部科学大臣顧問を務める。帰国後、東芝・常勤顧問、三井化学・社外取締役の傍ら、国連大学学長上級顧問。現在、( 一社 ) 中国研究所会長、(NPO) 中央アジア・コーカサス研究所所長、 国士館大学大学院客員教授、日本倶楽部評議員・講演委員など多彩な活動を続ける。著書として『お金の履歴書』、『キルギス大統領顧問日記』など。

ピックアップ



   

we`re

RecordChina

お問い合わせ

Record China・記事へのご意見・お問い合わせはこちら

お問い合わせ

業務提携

Record Chinaへの業務提携に関するお問い合わせはこちら

業務提携