アナログの象徴のような大型帆船がいまだに船員教育、社会人への海事の普及活動に使われている。シーマンシップとは何か。帆船教育は是か非か。デジタルの世紀に問われているのは、人間の原点に立ち返って考えるべきことかもしれない。

“I must go down to the seas again, to the lonely sea and sky，And all I ask is a tall ship and a star to steer her by：”

これは20世紀のイギリスの桂冠詩人ジョン・メイスフィールドの詩 “Sea Fever” の一節である。メイスフィールドは若いころ水夫としての経験があり、海へのあこがれ、まったき自然への憧憬をみごとに謳いあげて、こころを揺らす詩として名高い。

◆白帆のはためき、打ち寄せる潮の音、アメリカ大陸の「香り」

もちろんここで謳われる“toll ship“とは帆船のことであり、このあとも“白帆のはためき”、“打ち寄せる潮の音”、“任務が終わったあとの静かな眠り”（三木菜緒美訳による）、と自然と一体化した船と人のゆるぎない関係のみがそこにあるように詩はつづく。

筆者も、半世紀以上も前になるが、大型帆船に実習生として乗船して米国西岸、カナダ、ハワイを回って日本に帰ってきた経験がある。日本を出て太平洋横断の30日余、くる日もくる日もメイスフィールドが謳う世界にドップリ浸かったあげく、初めてはるかにアメリカ大陸を望んだときのなんともいえない高揚感は記憶に新しい。長いあいだ潮の香しか嗅いでこなかった嗅覚は、肉眼で陸影を見つける前から、大陸から漂ってくる針葉樹のほのかな香りをとらえていたことも、きわめて新鮮な体験として忘れがたい。このように非日常の極みともいえるのが帆船による航海といっていい。

日本には船員になるための訓練船として、大型帆船「日本丸」、「海王丸」があるのはご存知の通りだ。近い将来、船の自動運航、自律運航が実現しようというデジタル万能の世界において、その対極にあるアナログを象徴するともいえる帆船を訓練船として使う意味があるのか、あるいはもうなくなったのか、近年議論が続いている。

現在の「日本丸」、「海王丸」は二代目だが、一代目はいずれも1930年から1984年まで54年間、航海訓練所（現海技教育機構）の練習船として延べ2万人をこえる実習生を育ててきた（戦時中を除く）。現在も両船の役割は変わらないが、「海王丸」は社会人に帆船航海を体験してもらうという事業にも一部使われている。また一代目「日本丸」は横浜港、「海王丸」は富山港に係留されて、一般公開とともに、展帆ドリルなどをつうじて子供たちや社会人に海や船についての理解と知識の普及活動をおこなっていることはご存知のとおりだ。

19世紀後半、帆船から汽船の時代に移行して久しいが、船員になるための教育・訓練、そして国民の海事に関する理解や知識の普及という目的ために、長らく帆船が使われてきたのには理由がある。

◆船乗りに必須な“シーマンシップ（seamanship）”

“シーマンシップ（seamanship）”という言葉をご存じだろう。この言葉をどう定義付けるかは、さまざまに議論、研究がなされてきているが、ひとつは船乗りとしての技能、もうひとつは船乗りとしてのマインド、という二つに集約できそうだ。

千変万化の海という自然をのりこえて安全に船を操る技術、社会から隔絶された運命共同体である船で守るべき規律、マナー、あるいは心構え、順応性といった人格的なものの総集が “seamanship” というわけだ。 船員になるには船乗りの技能とマインドの原点を学べる帆船航海を経験させること、日頃海とは縁遠い社会人、子供たちにもひろく人間社会に通ずる規律やマナーを学んでもらう、あわせて海や船に関する理解や知識を得てもらいたい、というのがいまだに帆船が使われる理由といえる。

筆者の経験でも、すべてがマンパワーでおこなわれる大掛かりな帆の操作などを通じて、一人ひとりの役割の自覚とチームワークの結集があってこそ物事が成し遂げられることを身をもって教えられたこと、自然の過酷さと美しさを自分も自然の一部であるとの自覚とともに生に感ずることができたこと、なににもまして総帆をひろげて大洋を進む大型帆船の人工物とも思えない美しさを実感できたこと、などなど確かに人間の原点を考えさせてくれる現代に残された貴重な場ではないかと思う。

◆諸外国でも、官民が「練習船」として活用

諸外国においても、主として海軍の練習艦として大型帆船が使われ、また民間でも大小さまざまな帆船がつくられ、教育の場としても使われていることは同様の理由によるものだろう。

船員の教育・訓練のため大型帆船を保有することに否定的な意見は、やはりすべてデジタルで用が足る現在、高額な費用をかけて大型練習帆船を建造・保有する合理的な理由が見いだせないというところに集約される。

二代目「日本丸」、「海王丸」も2024年には40歳を超える。船員養成機関から輩出される船員の数もかつてと較べ大幅に減少した。アナログの象徴である帆船を船員の練習船として、今後も保有をつづけるのか否か、そろそろふたたび議論が活発になる時期を迎える。

“seamanship” の精神の涵養は、このデジタルの時代にあってこそ社会的に見直してみるべきテーマかもしれない。帆船教育の是非の議論は、単に船員教育の枠を超えて、広く国民にも考える機会を与えてくれるはずだ。

■筆者プロフィール：山本勝

1944年静岡市生まれ。東京商船大学航海科卒、日本郵船入社。同社船長を経て2002年（代表）専務取締役。退任後JAMSTEC（海洋研究開発機構）の海洋研究船「みらい」「ちきゅう」の運航に携わる。一般社団法人海洋会の会長を経て現在同相談役。現役時代南極を除く世界各地の海域、水路、港を巡り見聞を広める。