片岡伸行 2022年8月7日(日) 8時0分
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日本が法治国家であるなら、国家権力によるすべての決定と判断は、国の定めた法律に基づくものでなくてはならない。写真は「吉田茂国葬」を報じる1967年10月20日・23日・31日付『朝日新聞』紙面コピー。
日本が法治国家であるなら、国家権力によるすべての決定と判断は、国の定めた法律に基づくものでなくてはならない。岸田政権は凶弾に斃れた元首相の「国葬」を9月27日に実施すると「閣議決定」(7月22日)したが、2022年現在、「国葬」に関する法律も基準も日本に存在しない。法に基づかない閣議決定は有効なのか。「国葬に賛成・反対」以前の問題だ。
◆民主国家以前さえ法に基づく「国葬」
国葬の規定は1926年(大正15年)に公布された「国葬令」で初めて明文化された。天皇が直接発した命令(=勅令)である「国葬令」では、天皇や皇族の葬儀は「国葬」とされ、「国家に偉功のある者」については例外的に「天皇の特旨(特別の思し召し)」で国葬にすることができた。「特別の思し召し」で国葬にされた人の中には、軍人政治家の山縣有朋や日本の支配下にあった大韓帝国第2代皇帝の純宗、元帥海軍大将の山本五十六らがいる。民主国家とは程遠い大日本帝国憲法下の天皇主権国家であっても、彼らの「国葬」は法に基づいて行なわれたのである。
国葬令が敗戦後に失効(廃止)したことで、国葬に関する法律はなくなった。皇室についても「天皇が崩じたときは、大喪の礼を行う」(皇室典範第25条)とあるだけだ。根拠となる法律がないのに「閣議決定」だけで国費(税金)を投じる国家儀式が許される国は世界にどれだけあるのだろう。なんの基準も規定もないのだから、「国民の理解」があろうがなかろうが、時の政権が利用できると思えば「閣議決定」だけで「死の政治利用」が可能となる。これは戦前以下の状況ではないか。法治主義に基づく法治国家の基本を、内閣が率先して破っている。
◆「吉田茂 国葬」の情景
「いやいや、吉田茂の国葬という前例があるでしょ」という声が聞こえてきそうだ。55年前の1967年10月20日に89歳で死去した元首相・吉田茂の「国葬」を決めたのは佐藤栄作政権だった。
当時の新聞記事を見ると、佐藤がそれを希望し、吉田死去3日後の臨時閣議で決定した。このときも「国葬」には根拠法がなかった。大手紙には「戦後政治にレール 安保 国論二分のタネまく」(1967年10月21日付『朝日新聞』1面)などといった政治的な評価・論評の記事は次々と出てくるが、法的根拠なしの「国葬」についての指摘は(すべての新聞を確認したわけではないにせよ)ほとんど見当たらない。
国葬が決まった1967年10月23日の『朝日新聞』夕刊の1面トップは「31日に武道館で 吉田元首相の国葬 閣議で正式決定」との見出しで、閣議決定の内容をそのままずるずると紹介し、「首相が追悼談話を発表」などの小見出しが並ぶ。「国葬令がないのに、なぜ国葬なのか」などといった指摘は一切ない。「有識者」と称される人のコメントもなし。トップ記事の下に「〝国葬はやむを得ぬ〟社党国対委の大勢」というベタ記事が張り付いていて、社会党の国対委員会が「党としての態度を検討した結果、大勢はやむをえないとの意見だった。しかし、同委員会としてはこれを前例とせず、今後の取り扱いについては議院運営委員会で検討してゆく」などと書かれている。はて、その後どう「検討」されたのか。当時の野党第1党
の〝腰砕けさ加減〟がよく分かる。
では、当時の一般の人たちは「吉田茂の国葬」をどう受け止めたのか。「吉田さん さようなら」との大見出しのついた『読売新聞』10月31日付夕刊の社会面に「最敬礼と不審顔と 国葬 バラバラな町の表情」との3段見出しの記事がある。同日の『朝日新聞』夕刊にも「2時10分 さまざまな表情」との大見出し。「国民は黙とうを捧げて下さい」と各所のスピーカーで呼びかけたのが「2時10分」だ。記事本文はこう書き出される。
〈国電渋谷駅前のハチ公前広場では二時前から共産党や民主団体の宣伝カーが「憲法違反の国葬は軍国主義と帝国主義の復活につながる」と反対演説して、ビラをまいていた。二時十分、ハチ公の銅像のそばに人を待つ人、噴水をとり囲むベンチに腰をおろす人。だれ一人黙とうをする人はなかった。〉また、東京・駒場の東京大学には「するな黙とう、許すな国葬」の大看板が立ち、〈黙とうする学生は一人もいない〉。東京駅ではホームのスピーカーが一斉に「黙とうの時間です」を繰り返すが、誰ひとり黙とうをする人はなく、銀座で足を止めた女子高生は〈あれ、なにやってるの〉…。それでも〈都心の沿道に七万人〉の人たちが出て葬列を見送ったらしい。
ここでも、法に基づかず自分たちの税金が使われていることを指摘する記述はない。半ば強制的な「半休」や「1分間の黙とう」など政治的な同調圧力に屈する人と反対の声を上げる一部の人。その他大勢の無関心な人。これが日本国憲法施行20年の日本社会の一断面である。55年の歳月を経て、このようなお寒い光景がまた繰り返されるのか。
◆「日本国憲法に反する」と法学者が声明
「憲政史上最長の8年8カ月首相を務めたことや国内外から幅広い哀悼・追悼の意が寄せられていること」(岸田文雄首相・7月14日)が安倍晋三元首相の「国葬」を決めた理由だという。言うまでもなく、旧統一教会との癒着や「モリカケ桜」といった数々の疑惑が民主主義や公正さをどれだけ歪めたかも問われなければならない。
ところが、『朝日新聞』デジタル(7月22日配信)によれば、松野博一官房長官は元首相の国葬について「国民に政治的評価や、喪に服することを求めるものではない」と発言した。「国民の評価も理解も要らない」との表明のようだ。少なくとも「吉田茂の国葬」は、賛否はあったとしても戦後政治の「政治的評価」を基調として実施された。
政治家の国葬を「政治的評価」を求めずに行なうなどというのは、たとえば音楽家の音楽葬を「音楽的評価」なしに行なうのに等しい。故人への冒涜ではないか。しかも、各種世論調査では相次いで「国葬に反対」が賛成を上回っている。冒頭で「国葬に賛成・反対」以前の問題と書いたが、「法律なし、基準なし、国民の声を無視し税金だけは使う」などという独裁国家のような政治的セレモニーは、法治主義・民主主義にとって極めて有害だ。今年は日本国憲法施行75年。法的根拠なき「国葬」は法治国家として2度目の汚点になる。8月3日には憲法学者ら84人が「国葬の決定は、日本国憲法に反する」との声明を発表した。もはや「国葬」ではなく〝酷葬〟と言われても仕方がない。
■筆者プロフィール:片岡伸行
2006年『週刊金曜日』入社。総合企画室長、副編集長など歴任。2019年2月に定年退職後、同誌契約記者として取材・執筆。2022年2月以降、フリーに。民医連系月刊誌『いつでも元気』で「神々のルーツ」を長期連載中。
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