山本勝 2022年8月21日(日) 13時0分
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横浜港に係留されている「氷川丸」は、1930年に建造された当時の最新鋭貨客船で太平洋戦争がはじまり旧海軍に病院船として徴用されるまで、日本と北米西岸を結ぶ航路に投入され華々しく活躍した。
現在は近代産業遺産としてまた2016年には重要文化財にも指定されて船内が一般公開されている。皇族やチャップリンなどの有名人が泊まった部屋や、豪華なダイニングルーム、アールヌーボー調の飾りが美しい階段などが往時を偲ばせて、山下公園を訪れた観光客や市民の人気のスポットだ。
◆日本の近代化を支えた生糸輸出
本船のブリッジの真下あたり、一般公開されていない貨物艙のデッキに「SILK ROOM」の銘板が取り付けられた、かなり広い区画の部屋がある。この部屋に日本の産地から運び込まれた生糸がはるかアメリカに向けて輸出されたことは、本船内の展示場に当時の写真や関連の品々とともに紹介されている。開国以来日本の近代化を支えた生糸の輸出は、氷川丸をはじめとする国内外の商船の「SILK ROOM」で大事に管理、輸送されたことでなしえたという事実、また富岡製糸場に代表される生糸の生産地と欧米をむすぶ明治日本のシルクロードの大きな結節点が横浜であったという事実を「SILK ROOM」の存在を通じて改めて知ることも産業遺産の価値ではないだろうか。
日本はもともと養蚕が盛んで、奥州から上州にかけての東北、北関東および甲州、信州がその中心であったこと、また最大の消費地欧州で蚕の不作という当時の状況も重なって、1859年横浜港が開港されると生糸はたちまち最大の輸出品となる。
幕末から明治初期にかけての生糸の輸出先は、古くから需要があったイギリス、フランスであったが、1870年代に入って急速に発達した絹織物産業向けにアメリカへの輸出が増加する。1885年(明治18年)にはアメリカ向けが58%に達しヨーロッパ向け輸出を逆転、その後もアメリカ向けが50~60%を占めながら1929年の世界大恐慌と直後の生糸価格暴落まで輸出は拡大する。日本の生糸の輸出が記録から消えるのは1974年である。
◆生糸は明治政府の「救世主」
富国強兵、殖産興業を目指しながら一次産品の輸出に頼るしかない明治政府にとって外貨の稼げる生糸は願ってもない輸出品であり、その外貨を元手に近代化を成し遂げた明治日本にとり生糸はまさに救世主だったといえる。
発足間もない明治政府が、殖産興業の拠点に据えたのが生糸産業であり、渋沢栄一らの尽力により群馬に官営富岡製糸場が開設されたのは、1972年の明治維新のわずか5年後である。
筆者も数年前、富岡製糸場を訪ねたことがある。フランス人技師の技術と知識を借りたとはいえ、広大な敷地に最新鋭の機械を整えただけでなく、近代的な製糸技術の普及を見据えた人材教育に力を注ぎ、工場全体に西欧的な管理方式を導入するなど明治の先駆者たちの並々ならぬ努力と先見の明に驚いた覚えがある。まさに世界遺産にふさわしい産業遺跡である。
上記のとおり、生糸の生産地が主に東北、関東、甲信地域であったこと、それゆえに富岡製糸場が群馬につくられたこともあり、輸出地は必然的に横浜港が選択された。美濃や近江といった地方の生糸生産地からは開港が10年ほど遅れた神戸港からの輸出も開始されたが、1923年の関東大震災の影響で一時的に神戸港の使用が増大した時期があるものの、生糸の輸出は終始横浜港が神戸港を圧倒する。
◆富岡製糸場から横浜に至る水路と鉄路
1884年(明治17年)には前橋まで鉄道が延長され、主要な生糸供給地と横浜をつなぐ輸送路は街道の整備とともに拡充していったが、それまでは江戸時代に発達した河川を使った水運がおおきな役割をはたしていたようだ。筆者も富岡製糸場の近くを流れる鏑川の岸辺に利根川につながる集積地(利根川支流の烏川と鏑川の合流地付近の倉賀野にあったとされる)まで積み出されたとおぼしき跡地を見学したが、かなりの重量とボリュームで輸送されたであろう生糸の輸送に水運が使われたことは確実だと推測する。これまでの研究でもなかなか立証できる証拠が見つかっていないようで、富岡製糸場から横浜に至る水路を経由するシルクロードの究明は今後の興味あるテーマだ。
富岡製糸場に招かれたフランス人技師はリヨン出身で、絹を通じた日仏の交流は2018年皇太子殿下(現天皇陛下)がリヨン市を訪れるなどその後もつづき、明治日本のシルクロードはいまも到達地である欧米までつながっている。
◆近代産業遺産・氷川丸の歴史的価値
氷川丸の「SILK ROOM」は、近代日本を支えた貴重な輸出品であり、品質管理に細心の注意を要する生糸を、厳重な管理のもとで積み付け、安全に目的地に送り届けるという役割を果たした歴史の証人だ。「SILK ROOM」は現在日本の船では氷川丸だけに残された歴史的遺産なのだ。
いまは日の目を見ずに船内でひっそりと眠っているが、近代産業遺産としての氷川丸の歴史的価値をひろく社会に認知してもらうため、また観光客、市民に唯一現存する実物を見てもらうためにも、「SILK ROOM」が当時の姿に修復されて一般に公開されることを強く願っている。
■筆者プロフィール:山本勝
1944年静岡市生まれ。東京商船大学航海科卒、日本郵船入社。同社船長を経て2002年(代表)専務取締役。退任後JAMSTEC(海洋研究開発機構)の海洋研究船「みらい」「ちきゅう」の運航に携わる。一般社団法人海洋会の会長を経て現在同相談役。現役時代南極を除く世界各地の海域、水路、港を巡り見聞を広める。
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