中国から来日中に障害者をじっと見つめた母の思い

武 小燕    2023年1月27日(金) 20時0分

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母が来日した時のある場面がよく頭に浮かびます。写真は07年8月、両親と甥っ子と東大寺を訪問した時のもの。

母が来日した時のある場面がよく頭に浮かびます。まだ留学生だった頃、両親は学業などで何年も中国に帰れなかった私と会うために日本に来てくれました。せっかく来てくれたからと東京や京都へ観光に連れていきました。ある日、東京でバスの乗り換えをしていた際に、先に降りた私が後についているはずの母を振り返ると、母は降りたバスのドアの近くで、身体障害者が下りてくるのをじっと見ていました。

周りは誰一人、身体障害者のことを特別視せず、自然体で動いているのに、母だけがじっと見ていました。あまり見かけない日本の身体障害者の様子を珍しがっていたのだろうか、と私はとても恥ずかしくなり、思わず明らかに不機嫌な声で「お母さん、何をしているの。早く来てよ」と母を呼びました。私の不機嫌さが伝わり、母は何かを間違えた子どものように緊張してついてきました。「何か手伝えることがあるかなと思ったのよ」と母がつぶやきました。そういうことだったのか…。母を誤解したことが分かり、私は自責して母に謝りました。それ以降、観光客や在日外国人に関する異文化エピソードが出るたびに、私はこの出来事を思い出してしまいます。娘でさえ母の異国における言動を誤解してしまうのだから、思い込みや先入観で異なる文化背景を持つ人の言動を勝手に判断できないとつくづく思います。

私は自分の目を信じましたが、目に入ったことの背景や意味を必ずしも理解していませんでした。上記のことで中国の古典「顔回の盗み食い」を思い出しました。孔子は弟子たちが食糧に困った時に、弟子の顔回がどこからかもらった米でご飯を炊き始めました。しばらくして孔子は顔回がご飯を手でつかんで食べるところを見かけました。しかし、実際はご飯に木炭の灰が落ちてしまったため、顔回がそれを捨てるのがもったいなくて食べたのです。それを聞いた孔子は、「人は自分の目を信じるが、見たものがすべて信用できるとは限らない。人は自分の心に頼るが、自分の心があてにならないときもある。弟子たちよ、人を理解するのは簡単ではないことを覚えなさい」と戒めました。

日本語には「以心伝心」という言葉があります。中国語にも似ている表現があり、「心有灵犀一点通」といいます。しかし、それはとても親しい仲間同士なら当てはまるかもしれませんが、汎用するのは難しいでしょう。まして、異なる文化背景や習慣を持つ人に対して、相手の表面上の言動を見聞きするだけで自分または自分たちの価値観や基準で決めつけるのは、誤解が生じてしまう恐れがあります。相手を正しく理解しようとする気持ちを持ってコミュニケーションを重ねていく努力が、多文化共生社会では何より大事なことでしょう。

■筆者プロフィール:武 小燕

中国出身、愛知県在住。中国の大学で日本語を学んだ後、日系企業に入社。2002年に日本留学し、2011年に名古屋大学で博士号(教育学)を取得。単著『改革開放後中国の愛国主義教育:社会の近代化と徳育の機能をめぐって』、共著『変容する中華世界の教育とアイデンティティ』、『歴史教育の比較史』、研究報告書『多文化世帯に生きる子どもたちの言語習得に関する実証研究:愛知県における中国系世帯とブラジル系世帯の比較を通して』などがある。現在名古屋付近の大学で研究と教育に取り組んでいる。一児の母として多文化教育を実践中。教育、子育て、社会文化について幅広く関心をもっている。

※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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