クレオパトラと虞美人、洋の東西による女性美の違い―役者が体験踏まえて解説

中国新聞社    2023年1月30日(月) 23時30分

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「美女」とはどのような女性を指すのか。京劇の重要な俳優である魏海敏さんによると、洋の東西で「美女」には違いがあるという。写真は京劇で表現される、中国史上の代表的な美人とされる虞美人。

梅蘭芳(1894-1961年)は中国を代表する伝統劇である京劇の歴史の中で燦然(さんぜん)と輝く名優だ。彼は日本における歌舞伎の改革にも触発されて、近代京劇流派の「梅派」を完成させた。「梅派」を引き継いだのは梅蘭芳の息子で名優だった梅葆玖(1934-2016年)だ。台湾人女性の魏海敏さんは、その梅葆玖の高弟であり、「梅派」の中でもとりわけ重要な俳優の一人だ。魏さんは創作劇にも取り組んでおり、クレオパトラを演じたこともある。魏さんはこのほど、中国メディアの取材に応じて、中国文化はどのような女性を「美人」と見なしたか、さらには西洋文化との違いを解説した。以下は、魏さんの言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

洋の東西で異なる「女性の魅力」のとらえ方

私は「クレオパトラとピエロたち」という芝居でクレオパトラを演じたことがある。その時には、東西で「女の色気」についての認識がかなり違うと痛感した。クレオパトラは西洋史の中でも、とりわけ美しく知性ある女王とされる。私は、西洋の文脈における「女の色気」は、その女性のあらゆる面、例えば話し方や動作に関連することに気付いた。

東洋人からすれば、色気を誇示しているようにも思えるが、西洋人は体全体から色気が発散されることを、ごく自然なこととみなしてきたようだ。もちろんこの「色気」は悪いことではなく、女性の魅力と受け止められた。

中国ではどの王朝の時代にも、男女の乱れを避けるために、色気は「あってはならない」とみなされてきたようだ。とくに劇の場合にはそうだ。女性の風情は歴代の詩にも描かれてきたが、普通の家庭では話題にしてはならないことと考えられてきた。これが、中国と西洋の大きな違いだ。

私が巨匠である梅蘭芳先生の芝居から学んだ女性の美とは、その一挙手一投足から、人の心を春風に包まれているような状態にすることにある。梅葆玖先生はいつも私に、虞姫(虞美人)の美しさは、項羽からみた美しさにあるとおっしゃっていた。項羽が没落への道をたどっても、虞姫はいつも笑顔で項羽を迎え入れていた。この包容力や寛大さ、優しさが、項羽にとっての虞姫の魅力だった。西洋では女性の魅力は周囲に発散されると考えられたが、中国では特定の人だけに向けられるべきものだった。

梅蘭芳先生は中国の美意識に基づいて「純粋無垢」の女性を描いた

梅蘭芳先生は、中国の古典的な美意識に従って女性を演じた。ただし、社会は激動期だった。梅蘭芳先生は清末に生まれたが、最も輝いたのは中華民国期だった。京劇はもはや宮室の独占物ではなく、一般観衆のものだった。社会全体が新しさと開放性を求めた。京劇の旦(女形)は端役の場合が多かったが、梅蘭芳先生をはじめとする芸術家の創造により、劇の主役になった。

梅蘭芳先生の活動が黄金期に入った1920年代、娯楽の種類はまだ多くなかったが、すでにレコードはあった。そのため、質の高い京劇の歌声を広めることができた。先生は創作京劇の「太真外伝」が評価され、27年に「順天時報」紙によって四大名旦の一人に選ばれた。

この創作京劇は非常に大胆だった。たとえば楊貴妃が華清池の温泉で入浴する場面がある。梅蘭芳先生の表現は実に繊細で、絶世の美女が後世にもたらした想像の空間を完全に表現した。身にまとった白い薄布などで視覚的な美しさに昇華させることで楊貴妃の裸体を象徴した。歌声によっても「色気」を雅(みやび)なものにした。そして楊貴妃のはにかんだ様子を細やかに表現した。

梅蘭芳先生の役作りにはこのような純粋無垢で、色に例えるなら純白の気品がある女性の表現がよくあった。梅蘭芳先生はまた、せりふや歌を用いずに、仕草や踊りだけで女性の気持ちを表現することにも長けていた。

芝居は「仮想人生」を示すことで観客を癒やす

私は、一般的には「悪女」の烙印を押されるような女性を演じたことも多い。例えば、ギリシャ悲劇の「メディア」を下敷きにした「楼蘭の女」という創作芝居だ。この芝居の主役を演じ始めた若い時期には、どうして子殺しの暗い心理を観客に見せるのかと疑問にも思った。しかし、演じれば演じるほど、それぞれの登場人物が裏切られたり捨てられたりしたことで、心に傷を負っていることを感じるようになった。そして、「メディア」のような復讐を現実の世で行うことはできないが、観客は役者の演技を見ることで、自分自身の感情を癒やすことができると理解するようなった。

私が役作りの上で最も磨きをかけた劇は、張愛玲(1920-95年)の小説を原作にした「金鎖記」だ。主人公の曹七巧は小さな油屋の家の娘だったが、気位が高くて人付き合いも巧みだった。彼女は名門の家に嫁ごうと決意し、それを実現させた。しかしそこでの生活は彼女が全く想像していなかったものだった。彼女は周囲の人すべてから見下された。彼女はとても負けず嫌いだったので、自分の思い通りにならないことは、全て他人が悪いからと考えて、運命に受け入れることをしなかった。そして年齢を重ねるとともに、言動に異常をきたすようになる。

私は彼女が持つさまざまな個性を設計した。曹七巧がわが子を完璧に統制しようとしたが、それは彼女の善意によるものだった。私は彼女の心理を全面的に分析した。そうすると多くの人から、私が演じる曹七巧に、自分自身の母の姿を見たと言われた。あまりにも多くの母親が、一生を通して自分の子どもにしがみついていると分かった。思うようにいかなかったことで抱くようになった恨みの感情を、「愛」という名目で自分の子に押し付けているわけだ。

これは人生における難問の一つだ。解決するためには、何かを学び取らねばならない。この意味で、芝居は私の導師だ。芝居は私に、人生をいかに生きねばならないかを教えてくれた。

現代社会では、女性が受ける制約が減ったかのようにも思えるが、女性の真の内面に対する理解はまだ足りない。女性は誤解されていることが多く、また、やはり多くの女性が閉じ込められ、無視されているのではないか。この世界には陰陽が協調するエネルギーが必要だ。つまり女性に代表される「陰」と男性の「陽」が共に協調してこそ、平和で素晴らしい社会を築くことができる。もっとも、「陰」とは女性だけに特有のものではなく、全ての人の内面にある包容力、慈悲力、優しさの力のことだ。

私自身の人生経験も演劇を演じる上での栄養になっている。私は通常の意味では順調でない家庭に育った。50歳前後になると、演劇とは「鏡像」のようなものだと感じるようになった。登場する多くの女性は、自分の命を懸けた選択をする。演劇では、観客が自分自身ではできないことを登場人物が代わりにやってくれる。役者とは本質的に、感情の癒やしをもたらす存在であり、観客と共に登場人物の人生を体験する存在だ。その体験により新たな認識がもたらされる。その過程を通じて女性の内面を多く知ってこそ、人生と社会により多くの理解と和解がもたらされる。(構成 / 如月隼人

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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