中国新聞社 2023年5月7日(日) 23時30分
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隠元禅師は、日本文化全体に大きな変革をもたらした。写真は中国仏教協会と中国美術館が2022年に共催した隠元禅師と関連人物が残した書画の展覧会。
日本に渡った隠元禅師(1592-1673年)は臨済宗の高僧だった。しかし隠元禅師はそれまでの日本の臨済宗とはやや異なる流儀を持ち込んだので、隠元禅師の宗派は日本で黄檗宗と呼ばれるようになった。
日本が明治期に近代化の「スタートダッシュ」を果たせた大きな要因の一つに、教育の迅速な普及があったとされる。そしてその背景には、江戸時代にはすでに「寺子屋」が普及していたことがあるとの指摘がある。さらにその起源をたどると隠元禅師が当時の中国のやり方に基づいて、民間での教育に力を入れたことがあったという。
2015年に黄檗宗・万福寺第62代堂頭(黄檗宗管長)に就任した近藤博道師はこのほど、中国メディアの取材に応じて、隠元禅師が日本に伝えたものなどについて語った。以下は近藤師の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。
隠元禅師が日本に赴くきっかけは、先に長崎に来ていた中国人僧侶が何度も招聘したことだった。隠元禅師はまず、弟子の懒性圭を派遣したが、海難事故で亡くなってしまった。そこで隠元禅師本人が、数十人の弟子を引き連れて来日した。1654年、隠元禅師が63歳の時だった。
日本には奈良時代からの仏教の歴史があった。しかし隠元禅師の来日は、日本における仏教の中興の大きなきっかけになった。隠元禅師は当初、3年間の滞在予定だったが、入滅されるまで、日本で暮らすことになった。出身の万福寺を懐かしまれたのか、日本の京都に建立した寺は「黄檗山万福寺」と命名された。
隠元禅師は1673年に入滅したが、その前日に後水尾法皇から「大光普照国師」の諡号(しごう)を賜わった。日本の皇室はその後、約50年ごとに隠元禅師に新たな諡号を授けてきた。諡号を賜ったのはすでに7回もある。最近では2022年2月に、今上天皇から厳統大師(げんとうたいし)の諡号を授けられた。このことは、隠元禅師の日本に対する功績と影響力を物語っている。
黄檗宗は当初「臨済宗黄檗派」と呼ばれていたが、1876年に一宗派として独立した。日本の「禅宗」には臨済宗、曹洞宗、黄檗宗がある。黄檗宗は臨済宗や曹洞宗に比べて、中国文化の特徴を色濃く残している。江戸初期から中期にかけて、黄檗宗の大本山である万福寺の住持のほとんどは中国からの渡来僧だった。
黄檗宗の考え方や、戒律清規(禅僧としての戒律と規則)、法事儀軌(儀式の規則)、教団組織、寺院制度などは、戒律が緩んで活気のなかった日本仏教に大きな刺激を与えた。各宗派は黄檗宗にならって自らを見直した。日本の近世仏教はこのことで、改めて活力を得た。
隠元禅師は、日本人の日常生活にも影響を与えた。日本の僧侶は当時、1日2食が一般的だった。中国ではすでに1日3食に変化していた。古代インドでも僧侶は1日2食だったが、寒い中国では難しかった。中国の僧侶は夜に空腹になると温めた石を懐に入れて腹部を温めてしのいだ。この石は「薬石」と呼ばれた。しかし薬石を使っても無理ということで、夕食の習慣が定着した。日本の僧侶も「薬石」で腹部を温めていたが、隠元禅師が1日3食の習慣を日本に伝えた。
黄檗宗では中国から伝えられた儀式の作法や経典の読誦を忠実に伝えてきた。例えば読経の際の発音は隠元禅師の時代の中国語の発音だ。われわれは日本の他の宗派の僧侶と一緒に中国を訪れたことがある。その時に中国の寺院で唱えられる経文がわれわれにも通じたので、一緒に読経した。それを見た他の宗派の僧侶は、「やはり黄檗宗は中国と縁が深い」と言った。一つ違うのは、発音は同じではあるが、中国人僧侶は大きな抑揚をつけて読むのに対し、日本の僧侶はやや平坦な声で読経するように思える。
黄檗宗には「梵唄」(ぼんばい)というものもある。歌うように読経することだ。鐘や太鼓、木魚などの法器を伴奏に使う。隠元禅師が渡来するまで、日本の寺院に木魚はなかった。黄檗宗の万福寺は、木魚発祥の寺院として知られている。
隠元禅師は仏学の経義を伝えただけでなく、当時の中国の最先端の文化や技術などを日本に持ち込んだ。その多くが今に伝えられている。黄檗文化は思想、文学、言語文字、書道、音楽から、仏像彫刻、印刷、絵画、さらには医学、教育などに至るまで、日本に広範な影響を与えた。隠元禅師は中国の明代の建築技術ももたらした。京都の万福寺はは明代の寺院建築様式だ。
日本の近代化以前に庶民の教育に重要な役割を果たした「寺子屋」の普及にも、黄檗宗の僧侶が大きく貢献した。隠元禅師が渡来した当時、日本には庶民教育がなかった。中国では明の時代に庶民教育が強化された。徳川幕府は中国の明朝の政治に倣ったが、このことが黄檗宗の僧侶が庶民教育に力を入れるための環境を整えた。
黄檗文化は今の日本社会でも生命力を保っている。例えば隠元禅師が日本に渡るまで、日本人は食事の際に床に座り、各人の前に箱膳とよばれる膳を置き、そこに一人分の食事を並べていた。隠元禅師は食卓を囲み、大皿に盛りつけられた料理を各人が自由にとって食べるスタイルを伝えた。この方式はとても便利だが、日本家屋に中国式の丸テーブルや椅子なじまないために、テーブルの足を短く切って、各人がテーブルに向かって床に座って食事ができるようにした。皆で一つのテーブルを囲むことには、平等意識を促進する面もある。
食材としてはインゲン豆やレンコン、スイカなどを伝えた。文化の面では明朝体と呼ばれるように書体や書稿用紙も伝えた。このように隠元禅師がもたらした文物や生活様式は日本社会に深く溶け込み、多くの日本人はそれらを、日本に古くから伝わる文化だと思うようになった。
隠元禅師は、人として修行し、道場を建設し、仕事を立ち上げ、人と人との交流の中で道義を貫くことを私たちに説いた。日本文化と中国文化は互いに交流し、促進し合う必要がある。「道義を持ち、彼我を照らし合わせる」は、隠元禅師の教えであり、黄檗文化の魂であり、魅力でもある。隠元祖師はまた、「宇宙の中でも地上でもすべてのものは道義に基づき、互いに見守り助け合うべき」と教えた。
今日改めて、隠元禅師の精神を体得することで、日本と中国はより強靭な絆を築き、互いに切磋琢磨し、さらにつながりを深めることができるはずだ。世界は交流を必要としている。交流がなければ、地球の平和はない。人と人との心は国境を越えて通じ合えるものであり、それが世界の平和にもつながることになる。(構成 / 如月隼人)
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