モンゴル支配下の東西交流とは―世界に2点しかない文化財が語ること

中国新聞社    2023年5月13日(土) 0時0分

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元朝時代と言えば、中国史の「暗黒時代」の印象もある。しかし実際には、東西交易も盛んな繁栄の時代だった。写真は元朝などの公式の使者が所持していた「パイザ」と呼ばれる通行証。

モンゴル民族が樹立した王朝の元が南宋を完全に滅ぼしたのは1279年で、中国支配を放棄したのは1368年だった。かつては元朝支配下の中国は「暗黒時代」だったようにも思われていたが、実際には中国の経済都市は極めて繁栄していたことが明らかになってきた。さらに、中央アジアや現在のロシア領、西アジアにモンゴル民族が政権を握る国が登場したことは、東西交流の活性化に大きく寄与した。

元朝時代に公務のための旅行者は、「パイザ」と呼ばれる身分を示す金属製の通行証を所持していた。パイザに書かれていた文にはパスパ文字が用いられていた。この文字は、フビライ・ハーンの依頼を受けて、チベット人のパスパと呼ばれる高僧が考案したもので、現在のモンゴル文字とは系統が異なる。なお、パスパは本来のチベット語ではパクパと発音されるが、当時のモンゴル人はパスパと呼んだので、中国語でも八思巴(バースーバー)の表記が一般的になった。

現在に残る重要なパイザである「八思巴文虎符円牌」を所蔵しているのが甘粛省博物館だ。同館研究部の李永平主任はこのほど、中国メディアの中国新聞社の取材に応じて、元代の東西交流などについて説明した。以下は李主任の言葉に若干の説明内容を追加するなどで再構成したものだ。

廃品の中に国宝級の文化財が埋もれていた

甘粛省博物館が所蔵するパイザの「八思巴文虎符円牌」は文化財関係者が省都の蘭州市内にあるくず金属の倉庫で見つけた。そして中央政府の国家文物局の専門家によって、国宝級文化財と鑑定された。デザインは精巧で、模様は細かくて流暢だ。鉄や鉛の合金で作られていて、円形部分の本体の上部に突起部分がある。高さは18センチ、幅は11.7センチ、重さは247グラムで、銀で作られた文字がはめこまれている。書かれているパスパ文字には、「大ハーンの聖旨、従わないものは罪に落とす」などの部分がある。

古い時代の中国に現代的な意味の身分証はなかったが、朝廷が命令を伝達したり軍を派遣したり、役人を任命したりした際には、関所を通行するなどのための身分証に相当するものはあった。歴代王朝がその方法を受け継いだので、規則などは完成されていった。元朝のパイザもそれより前の王朝の方法を受け継いだものだが、パスパ文字を使うなど異色だった。

中国歴代王朝の「通行身分証」は種類も多く、近現代になっても出土事例がある。このパイザが甘粛博物館の「至宝」になったのは、完全に保存されているものが世界に2点しかないという貴重さのためだ。

元王朝の建国前後は領土が広く、民族が多く、言語も文字も複雑で、政令の通達には不便があった。そのためにフビライが、モンゴル語を記述するためにパスパ文字を作らせた。ただし、その使用範囲は公的文書に限られていた。

モンゴルは支配する各民族の言語や文化に寛容だった

当時のモンゴル帝国は実質的に分裂していた。盟主とされていたのは元で、それ以外にもロシアなどを支配したキプチャク・ハン国、中央アジア北寄りのオゴデイ・ハン国、その南のチャガタイ・ハン国、中近東から現在のパキスタンにかけてのイル・ハン国などの国があった。

それぞれの国は激しく戦うこともあったが、公式レベルの交流は多かった。支配者が被支配民族の文字や言語を破壊したり、民間において言語を強要することはなかった。モンゴル軍団は各地で戦いを進める過程でも、地域の歴史的伝統と文化的伝統を比較的尊重し、異なる民族の文字と言語を保存し、相互参照と共栄を実現した。客観的に見て、そのやり方は統一多民族国家の発展を推進した。

元の広大な市民社会では依然として漢字が通用していた。パスパ文字が元朝の公式文字として使われた期間は110年間だけで、パイザ制度も元朝の滅亡とともに消滅した。

研究によると、甘粛博物館が所蔵するパイザは甘粛省あるいは青海省で出土した可能性が高い。中華人民共和国成立後に、新疆ウイグル自治区内で元代の青花磁器が出土するなどの考古学的発見が続いていることから、元代のシルクロードの活気を想像することができる。

モンゴル人は東西の交流を大いに促進した

モンゴル人は軍事力で各地を支配するようになったわけだが、実際には中原地区と西側との政治や経済、文化など多くの分野での交流を非常に重視した。中央政府は公式の命令によってシルクロードを往来する商人や使節団を保護しただけでなく、官僚や軍隊を設置して沿線の交通の円滑化を保障した。

当時は西域から、色目人と呼ばれた人々が多く中原地区に来て、儒家文化を受け入れた。彼らは儒家文化の伝播者にもなった。彼らの一部は元の宮廷に使えた。遠くは地中海沿岸を出発した大規模な隊商や使節団が、元に至った。そのため、イスラム教やキリスト教はこの時期に、比較的大規模に中原に伝来した。元とヨーロッパ諸国は幾度も、使節を往来させた。有名なマルコ・ポーロも欧州と元を往復した一人だった。

元代のシルクロードに沿った東西間の交流は、生産生活のあらゆる面に溶け込んでいたといえる。例えば、当時は元曲と言われた歌芝居が大流行したが、劇中の言葉や、演技の芸術、人物の造形などに「東西融合」の様相が明らかに見て取れる。また、西域からの飲食方式と各種調味料も絶えず中原地区に流入し、「中華の食卓」をさらに豊かにした。

中国の歴代王朝の中で、元は極めて広大な領土を支配した。東西の人々はユーラシア大陸を往来した。甘粛省博物館のパイザは当時の東西交流の状況を語る、世界に2枚しかない貴重な「生き証人」のうちの一つだ。(構成/如月隼人


※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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