<日本人の忘れられない中国>飛び込もうとした僕は3人の船員に止められた

Record China    2023年10月22日(日) 9時0分

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見知らぬ土地での失敗に僕はパニックに陥っていた。僕は離れていく香港に向かって飛び込もうとしたのだった。資料写真。

僕はその時、20代前半。大学の春休みを利用し、香港から広州へ渡る船の中にいた。せっかくだからと景色の見える席を確保して、僕はドカッと腰かけた。しばらくすると、僕の乗っていた船が動き出す。

「動き出したか」

僕の胸が高まっていく。

「広州へは何時に着くんだったっけ」

僕は腕時計を見た。そして、驚いた。チケットの時間よりも十五分も早く船が出発しているではないか。

焦った僕はリュックを抱え、看板に飛び出していく。そして、船員にチケットを見せた。チケットを覗き込んだ船員は僕を指さし、その後手を左右に振った。「これは違う船だよ」と。

僕は「何とかならないか」と片言の英語とジェスチャーで伝える。だが、すでに船は動き出している。船員も困っていた。そうこうしているうちに、岸が離れていく。

見知らぬ土地での失敗に僕はパニックに陥っていた。僕は離れていく香港に向かって飛び込もうとしたのだった。3人の船員に僕の愚かな行動は止められ、そしてフェリーは岸へ戻り、僕を香港へ戻してくれた。皆さんの好意のお陰で、僕は予定していた船に乗ることができたのだった。

これは25年も前の話。僕にとって初めての海外一人旅だった。

大学時代の僕は長期休みに入ると一人旅をした。北は北海道から南は沖縄まで、ある時は鈍行列車で、そしてある時は愛車のスクーターに乗って出かけたものだ。

日本各地を巡った僕は、今度は海外まで足を延ばそうと考えた。行先をどこにするか迷っていた矢先に、大学の講義で好奇心をくすぐる話を聞いた。

「来年の7月に、香港がイギリスから中華人民共和国へ返還される。返還によって香港も変わっていくだろう」

香港……輝く夜景、雑多な商店街、美味しい食事という印象があった。それと同時に整備されていない地域もある危険なところというイメージも併せ持つ不思議な街だった。

大学教授の話を聞き、僕は香港に興味を持つ。まだ、インターネットも流通していない時代、情報の根源は本だった。僕は図書館から本を借りて調べてみる。知れば知るほど香港に興味がわいた。そして、その隣にある中国にも行きたいと思うようになった。

香港と内陸では、隣同士であるにも関わらず、全く異なる文化を持つ。西洋の文化に色濃く染まった街が、異なる文化の国と一つになっていく。香港が返還される前に二つの文化を見たい……それがこの旅のきっかけだった。

大失態から始まった中国一人旅。広州へたどり着き、まずは街を歩く。僕は一目で広州に興味を持った。建物は古く、歴史が止まっているかのよう。整備されていない場所も多々見かける。当時の映画で見る中国そのものだった。人も多く、喧噪としている街で生活する人達の服装は質素だった。飲食店の前で材料を洗っている調理師さんの姿には驚いた。

広州から第一に感じたのはエネルギーだ。僕の知っている日本では目にすることのない、人々や街のエネルギーだった。

僕は片言の英語しか話せない。中国語で知っているのは「シェイシェイ」と「ニーハオ」くらい。街では英語を見かけることはなく、全て中国語表記だった。どこに行って良いかも分からない僕は、ガイドブックを片手に街の人に中国の文字や建物の写真を見せて行先を教えてもらった。

言語が分からなくてもなんとかなるものだなと思っていたが、人生はそんなに甘くない。食は広州にあり……広州を調べると必ず出てきた言葉。そんな広州には、様々な材料を使った料理があるという。その中でも、ヘビ料理で有名な店を僕は訪ねた。

歴史を感じさせる色褪せた建物の入口にはヘビが並ぶ。席についた僕はメニューを見る。中国語の読めない僕は、その料理の想像もできない。メニュー表を適当に指さし三品頼む。注文した時に、女性店員が笑ったような気がした。なぜ笑われたんだろうかと考えた僕は、出てきた料理を見てその理由を理解した。運ばれてきたのはヘビを焼いたお肉と、ヘビを焼いたらしいお肉、ヘビ肉のチャーハンだった。なんと、同じような料理しか頼んでいなかったのだった。

その上、一品ごとの量が多い。とても一人で完食できる量ではなかった。皿に多くの食材を残し、少し気恥ずかしい思いをしながらその店を後にした。

二日間の広州旅も終わりが近づく。その日のお昼には広九直通列車に乗って香港に帰ることになっていた。

帰路は往路のような失敗はしないと、朝から乗車駅を確認する。広州駅周辺には多くの人が集まって、混雑していた。後で調べると、働き口を見つけるために地方から出てきた人たちだということを知る。広州のエネルギーの源を見た気がした。

あれから僕は中国へ行く機会はない。現在の広州の画像を見ると、以前とは比べ物にならないほど、都会的な街に様変わりしていた。

見た目は変化したが、広州のエネルギーは変わっていないだろうと思う。僕が一目ぼれした広州という街。また、いつか出会えることを楽しみにしている。

■原題:困る船員と焦った僕の話

■執筆者プロフィール:鈴木 大輔(すずき だいすけ)

1975年鹿児島県奄美大島生まれ。鹿児島経済大学(現鹿児島国際大学)社会学部卒業後、埼玉県草加市の精神科クリニックへ精神保健福祉士として入職。30歳の時に、鹿児島へUターンし、医療機関の事務職員として勤務。大学時代は、長期休みになると国内外問わずに旅へ出ることが好きで、大学3年時の香港と内陸への一人旅を綴ったものが本稿である。

※本文は、第5回忘れられない中国滞在エピソード「驚きの連続だった中国滞在」(段躍中編、日本僑報社、2022年)より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。


※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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