スタジアムの孤独、サッカー女子日朝戦観戦記

北岡 裕    2024年3月22日(金) 23時0分

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サッカー女子パリ五輪アジア最終予選、日本対北朝鮮の試合を見に行った。

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かつてソウルの新村に住んでいた。隣の弘大までは小さな丘があり、その途中に下宿があった。新村の中心街に向かう時はだらだらと坂を下っていく。ある日の夜、下宿で勉強していると、「どっ」「わー」と拍手と悲鳴が混ざったまるで地鳴りのような音を2度ほど聞いた。勉強が一段落して小腹を満たすものを買いに坂を下りていくと、翌日も平日だというのに人が繰り出して騒いでいる。いったい何だこの騒ぎはと困惑しながら、そういえばサッカーの日韓戦の日だったと思い出す。地鳴りが響いたのは、どうやら韓国が得点した瞬間だった。コンビニでお菓子を買った帰り道、やまぬ喧騒から離れていく道すがら、私は外国人で、ひとり外国にいるのだということを強く感じた。

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北朝鮮・朝鮮民主主義人民共和国にもサッカーリーグがある。北朝鮮の案内員もサッカーの話になると少し温度が上がる。「普段どのように応援するのですか?好みのチームを選ぶ理由は?」と問うと、サポーターやフーリガンのことが頭をよぎったか、「熱烈な応援はしませんよ。例えば友人の息子が選手であるチームや、気に入ったチームを応援します」と予防線を張りながら答えてくれた。

私はサムライブルーや「絶対に負けられない戦いが、そこにはある」という意識が希薄で、スタジアムやスポーツバーに行かないのはもちろん、あおるようなテレビ中継も見ない。こういう時だけやたらと「ニッポン!ニッポン!」と愛国心をあおり、またあおられる向きとは合わない。愛国心とはスポーツ大会のようなハレの空間だけで瞬間的に爆発的に燃やすものではない。静かに心のうちでろうそくのように静かに燃やすものではないか。日本代表に期待していないのではない。むしろ、まだ若い彼らが必要以上に期待され、国家の威信まで背負わされるのがどうも気の毒なのだ。

その私が今回、国立競技場に足を踏み入れた。サッカー女子パリ五輪アジア最終予選、日本対北朝鮮の一戦。北朝鮮側の応援席で観戦した。先に書いておくが、怖い思いは全くしなかった。友人や読者の方と会ってむしろ楽しかった。

アウェー席のチケットは通常買えない。在日コリアンの方が協力してくれて、その方のいる東上野の事務所に出向いて入手した。費用は3500円で、うち500円は応援グッズ代(男子はチケット4100円、グッズ400円の計4500円)。渡されたのは引換券で、試合当日に入り口近くのテントでチケットに引き換えた。支部ごとに割当があったようで、どこの支部で引換券を買ったか問われる。名前を名乗ったが、窓口の人も知り合いで、「お久しぶりです。今日はわざわざ応援に来てくださってありがとうございます」と感謝されて戸惑う。

「応援カラーは赤」と事前に聞いていた。アントニオ猪木氏の赤い闘魂タオルを首にかけ、背中に平壌で買ってきた北朝鮮国旗を羽織った。こういう時はやり過ぎる方がよい。

3000枚のチケットはほぼ売り切れだったと後で聞いた。男子のチケットも開催を前にすでにほぼ残っていないという。

3000人の赤い応援団の中核を成すのは朝鮮大学校の学生。真ん中に陣取り、大きな国旗をはためかす。応援グッズは赤いスティックバルーン。「必勝朝鮮」と朝鮮語で書いてある。歌に合わせてこれをたたくのが基本的な応援スタイルだ。朝鮮大学校生は大太鼓を持ち込んでいた。ホイッスルはない。


幸い最前列の席を確保できた。私の後ろには在日本朝鮮留学生同盟、日本の大学に通う在日コリアンの学生たちが陣取った。

北朝鮮の愛国歌を歌う。私は北朝鮮の愛国歌は普通に歌えるのだが、問題は次の君が代。後ろの席の学生たちに仁義を切る。「北の国旗をこうして背負って北の応援席にいるけど、私は日本人なので君が代を歌いますよ」と。彼らは笑いながらも「ちょっと小さめの声でお願いします」という。構わぬ。北朝鮮側応援席で君が代を大きな声で歌った。

当日流れた北朝鮮の歌は以下の通り。

・愛国歌

・われらの国旗

・愛そうわが祖国

・攻撃戦だ

・行こう白頭山へ

・社会主義前進歌

・勝て勝て わが国勝て

最後の歌以外はもともと知っていて歌えたのだが、最後の「勝て勝て わが国勝て」は直前に作られ、後ろの席の学生もLINEで回ってきたと教えてくれた。幸い歌詞は簡単で、すぐ覚えることができた。

これくらい押さえていけば問題ない。頬に貼る共和国旗シールを朝鮮大学校の学生が配り始めた。学生を捕まえて5枚確保した。自分の頬に2枚、知己のある方に2枚渡し、残り1枚は自分へのお土産にした。

ふいに後ろの席から名前を呼ばれた。ふり向くと在日コリアンの朝鮮音楽の師匠がいた。「来たんですか?」という師匠の問いに「来ましたよ」と背中の北朝鮮国旗を見せつけながら答えると、周囲に「この人は日本の方。北岡さん」とバラされた。師匠があおり、引率する学生が驚きながら笑い、私の名前をコールしてくれた。滑稽な瞬間だった。

読者の方やかつて取材先で出会った在日コリアンの方と会う。背中に国旗を背負った私の姿に笑い、近況を話す。会場のあちこちに私以外にも久しぶりの再会を楽しむ人たちがいて、応援は常に熱狂的なのだが、同時にコロナで奪われていた再会の機会となっていた。

ひいきの選手を1人挙げるなら、主将のスン・ヒャンシムを挙げたい。背番号7。スンは承か勝だろうか、珍しい名字だ。だからソンと間違えられることが多い。ヒャンシムは香心だろうか。身長153センチと小柄なのだが、豊富な運動量でピッチを走り回り、キャプテンシーに秀でている。私にとって北朝鮮のサッカー選手といえば彼女だ。

試合は日本2-1北朝鮮という結果で終わった。「ホームの試合をサウジアラビアではなく平壌で開催していれば結果は違った」という人も多かった。男子のホームの試合は平壌開催が決まったが(編集部注:その後、アジア・サッカー連盟は22日に北朝鮮対日本戦を中立地で開催すると発表した)、「在日コリアンは応援のために入国できるのか。できないとしたら、われわれより日本の選手が先に入国するのは何だか悔しい」と複雑な胸中を語る人もいた。彼らはコロナの影響で長く帰国できていない。入国できないのは私も同じなのだが、彼らにとっては帰国で、重みが違う。先日、北朝鮮にコロナ後に初めてロシアからの観光客が入った。これにも彼らは「面白くない。同胞の帰国が先であるべき」と話す。

再び朝鮮語が飛び交う赤い熱狂の渦に身を置く。在日コリアンがほとんどの応援席で、彼らは久しぶりの再会を楽しみ、祖国の選手に最後まで熱い応援を送っていた。逆に日本人が少数者であることに心もとなさを感じる。この心もとなさは日韓戦の喧騒が残る中を歩いたソウルの新村夜でも、平壌でも感じたものだ。日本の赤いパスポートの信用度は高く、入国審査も簡単に済む。もちろんそこには日本の国力と重ねてきた先人の信用があるのだが、北朝鮮では通じない。当たり前の事務的な対応と普通の対応に戸惑う。

日本においてわれわれ日本人はマジョリティーで、世界に対しても信用がある。こう慢心しないようにと心がけてはいるのだが、やはりどこか自分にも水漏れのような慢心がある。

帰り道、国立競技場から離れるにつれて薄まる赤い熱狂の余韻に触れながら、心もとない新村の夜の記憶と平壌の記憶を私は思い出していた。

■筆者プロフィール:北岡 裕

1976年生まれ、現在東京在住。韓国留学後、2004、10、13、15、16年と訪朝。一般財団法人霞山会HPと広報誌「Think Asia」、週刊誌週刊金曜日、SPA!などにコラムを多数執筆。朝鮮総連の機関紙「朝鮮新報」でコラム「Strangers in Pyongyang」を連載。異例の日本人の連載は在日朝鮮人社会でも笑いと話題を呼ぶ。一般社団法人「内外情勢調査会」での講演や大学での特別講師、トークライブの経験も。過去5回の訪朝経験と北朝鮮音楽への関心を軸に、現地の人との会話や笑えるエピソードを中心に今までとは違う北朝鮮像を伝えることに日々奮闘している。著書に「新聞・テレビが伝えなかった北朝鮮」(角川書店・共著)。

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※本コラムは筆者の個人的見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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