<日本人の忘れられない中国>動けぬまま船内に取り残され「死ぬかもしれない」、中国人に助けられた命

日本僑報社    2024年5月12日(日) 17時0分

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「オーイ、助けてくれ!」。大声で何度も叫んだ。しかし、私の声は暗い船倉に虚しく響いた。

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10年以上前の初夏の出来事だ。私は、中国の黄浦江沿岸の港に貨物船へ荷物の積み込みの立会の為に訪れていた。朝から始まった作業は順調に進んでいたが、突然スコールのような大雨になり、作業は一旦中止になり、私は荷役会社の王さんの車に避難した。

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彼と車内で雑談の最中に、「あなたの携帯に電話すると国際ローミング電話料金になるため、これを持っていて欲しい」と中国の携帯電話を渡された。「トランシーバー代わりか」と、私はそれを胸ポケットに入れる。

1時間後に作業は再開され、積み込み作業が完了した。船は、船倉のカバーを閉め出航準備に入りはじめる。その時、私は船の中の積載状況を確認したいという衝動に駆られた。「急がないと船が出港してしまう」。あせった私は誰にも連絡せず船の甲板に上った。船倉のカバーは閉められていたが、船倉に降りる垂直ハシゴのハッチは開いている。ハッチから下を除くと、中は真っ暗である。

「上から光が差し込んでいるから、降りればなんとかなるはずだ!」。私は、そう決断しハシゴを降りた。しかし3メートル程降りた時に、右足が滑りバランスが崩れ体が宙に舞った。気づいた時、私の体は船の底に横たわっていた。何が起こったか理解できない。周囲は真っ暗でほとんど何も見えない。頭は打っておらず意識はハッキリしている。左手と右足が少し痛む。右脚が不自然な角度で曲がっていて、動かそうと思っても動かない。骨折しているようだ。しかし痛みは無い。出血も無い。

さて、どうするか?右の腰ベルトに着けてる日本の携帯電話は落下の衝撃で壊れていて使えない。まず、助けを呼ぶ事にしよう。「オーイ、助けてくれ!」。大声で何度も叫んだ。しかし、私の声は暗い船倉に虚しく響いた。「このまま出航してしまったら、日本に着くまで私は発見されないだろう。私は死ぬかもしれない?」。私の頭を恐怖がよぎる。私は必死で何か助かる方法を考え始めた。

「上半身と左脚は動くのだからタラップの下まで這っていって、腕と左足の力で上がろう」とアイディアが浮かんだ。ところが、這う体勢になるために体の位置を変えようとした瞬間に左足に激痛が走った。今の状態が、安定していて痛みを感じないポジションで、それを変えようとすると折れた骨が神経に触れて激痛が走る。

「動けないし声も届かない、無理なのか?」と諦めかけたところ、胸ポケットの王さんの携帯電話に気がついた。それを取り出し、王さんに電話をかけることにする。「王さんの電話番号を覚えていない!」「どうする?」「そうだ、通話履歴を使おう!」通話履歴に順番に電話すれば、その内に英語のわかる人がでてくれるだろう。

私は、電話をかけ始めた。幸運なことに、3人目で王さんと一緒にこの港に来ている英語を話せる関係者につながった。私は、彼に事情を説明する。しばらくして、人の声と梯子を降りる音が聞こえてくる。懐中電灯の明かりと王さんの顔を見た時、「助かった!」と涙が出た。

体を動かすと激痛が走る為、タンカーに私を載せて港のクレーンで私を吊上げることになった。しかし人間を港のクレーンで吊るという事は、規定外という事であり許可が下りるまで待たなければならない。しかも何時間かかるかわからないとの事だ。私は、意気消沈した。王さんは、そんな私の手を「ぎゅっ」と握って「大丈夫、心配ない」と励まし続けてくれた。手を握ってくれたのは「気」を送ってくれていたのだろう。その手の暖かさは私に元気を与えてくれた。

結局、3時間後に私は救助され、救急車で王さんが選んでくれた病院に向かった。到着後、先ずMRIを撮った。その写真を見ると、右足の大腿骨がいくつかの破片に分かれていた。こんなひどい怪我が、ここで治るのだろうか?また輸血もしなければならないので感染症も心配になった。王さんにそのことを話したところ、「ここの病院の腕は俺が保証する。心配する事は無い」と力強い言葉を返してくれた。その言葉で、私は安心して手術を受ける事ができた。

手術室に入ると、すぐに全身麻酔の為に意識がなくなり、次に目を覚ましたのはベッドの上だった。6時間もの大手術であった。左足と左手は捻挫の為ギブスで固定されている。さらに右腕には点滴の針が刺されているという状態で、両腕および両足を動かすことができない。

こんな状態でどうなるだろうと不安だったが、この病院には24時間付き添いのサービスがあり、12時間交代で二人の方が親身になってお世話をしてくれた。食事、洗顔、洗髪、髭剃り、買い物そして排泄物の処理、体の動かせない私にとっての命綱となってくれた。そして、松葉杖で自由に動けるようになった段階で日本に帰国した。帰国後の回復も順調で、後遺症が出ることなくゴルフや山登りを楽しんでいる。

中国で命を救われた後の人生は、第2の人生と言っても良いだろう。考え方のベースに日中親交を置き両国の懸け橋となっていきたい。

■原題: 中国で救われた命

■執筆者プロフィール:齋藤 裕之(さいとう ひろゆき)会社員

50代後半、男性。東京の国立大学卒業後、大手企業の建設部門に所属し、エンジニアとして国内外の建設に従事。中国では、惠州市にて石油化学プラント建設、上海にてプラント機器輸出業務に従事しトータル一年の滞在経験あり。

※本文は、第6回忘れられない中国滞在エピソード「『香香(シャンシャン)』と中国と私」(段躍中編、日本僑報社、2023年)より転載したものです。文中の表現は基本的に原文のまま記載しています。なお、作文は日本僑報社の許可を得て掲載しています。

※記事中の中国をはじめとする海外メディアの報道部分、およびネットユーザーの投稿部分は、各現地メディアあるいは投稿者個人の見解であり、RecordChinaの立場を代表するものではありません。

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