<面白っ!意外?映画史(6)>アラン・ドロン「太陽は知っていたのか?」――続「意訳・珍訳・誤訳」トンデモ訳

Record China    2014年10月26日(日) 22時44分

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美男スター、アラン・ドロンの代表作といえば、「太陽がいっぱい」「太陽はひとりぼっち」だが、邦題に「太陽」が使われている作品がもう1つある。「太陽が知っている」。原題は「プール」で、太陽とは全く関係ない。それどころかトンデモ訳と言っていい。

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20世紀を代表する美男スター、アラン・ドロンの代表作といえば、「太陽がいっぱい」(1960年、ルネ・クレマン監督)と「太陽はひとりぼっち」(62年、ミケランジェロ・アントニオーニ監督)だろう。いずれも映画史上に残る傑作である。

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そのドロン主演作で、邦題に「太陽」が使われている作品がもう1つある。「太陽が知っている」(68年、ジャック・ドレー監督)だ。ただ、「太陽がいっぱい」の原題が「いっぱいの太陽」で、ほぼ原題通り、「太陽はひとりぼっち」の方は「日食」で、原題に沿った意訳であるのに対して、「太陽が知っている」の原題は「プール」で、太陽とは全く関係ない。それどころか、トンデモ訳と言ってもいい。

 

同作では、夜中にドロンがプールで男を溺死させる。夜中だから、「月が知っている」なら分かるが、太陽が知っているはずはない。にもかかわらず、邦題に太陽が使われたのは、2本の太陽映画で名を上げたドロンの主演作だからだ。しかも、同作でドロンに殺される役を演じたのが、「太陽がいっぱい」でも殺されたモーリス・ロネである。だから、邦題に「太陽」を使い、「太陽がいっぱい」を連想させようとしたのだろう。だが、残念ながら、サスペンスとしても心理ドラマとしても、一級品とはいいがたい出来だった。

 

もう1つトンデモ訳の実例。「真昼の死闘」(70年、ドン・シーゲル監督)だ。原題は「シスター・サラに2頭のラバを」で、全く関係ない。シーゲル監督、クリント・イーストウッド主演だから、シリアスアクション作に思われそうだが、原題を見れば分かるように、同作はコメディーである。しかも、もう1人の主演がシャーリー・マクレーンで、尼僧に化けた娼婦の役なので、シリアスになるはずがない。ハードボイルド風の邦題は全くミスマッチである。しかも、クライマックスで確かに「死闘」はあるものの、それは真夜中なのだ。二重の意味で、トンデモ訳といえる。作品自体は面白かったが……。

「雨のしのび逢い」(60年、ピーター・ブルック監督)の原題は音楽用語「モデラート・カンタービレ」、つまり「普通に歌う」なので、全くの意訳だ。こんな邦題なのに、画面には1度も雨が登場しない。トンデモ訳と言いたいところだが、ヌーボーロマンの作家マルグリット・デュラスの原作を、ジャンヌ・モローとジャン・ポール・ベルモンドを使って英国の舞台演出家が監督した、この作品の不思議な雰囲気には合っていた。

 

サマセット・モームの短編「雨」を映画化した「雨に濡れた欲情」(53年、カーティス・バーンハート監督)の原題は「ミス・サディ・トンプソン」。リタ・ヘイワースが演じた主人公の名前だ。ただ、この原題ではどんな作品かさっぱり分からない。原作小説の題名でもよく分からない。ふしだらな女に道徳を説いた男が、皮肉にも自らの欲情に負けるという作品の本質は、一見どぎつい邦題でズバリと表されていた。名意訳である。なお、この小説は戦前にも映画化されており、原題も邦題も原作と同じ「雨」(32年、ルイス・マイルストン監督)だった。

川北隆雄(かわきた・たかお)

1948年大阪市に生まれる。東京大学法学部卒業後、中日新聞社入社。同東京本社(東京新聞)経済部記者、同デスク、編集委員、論説委員などを歴任。現在ジャーナリスト、専修大学非常勤講師。著書に『失敗の経済政策史』『財界の正体』『通産省』『大蔵省』(以上講談社現代新書)、『日本国はいくら借金できるのか』(文春新書)、『経済論戦』『日本銀行』(以上岩波新書)、『図解でカンタン!日本経済100のキーワード』(講談社+α文庫)、『「財務省」で何が変わるか』(講談社+α新書)、『国売りたまふことなかれ』(新潮社)、『官僚たちの縄張り』(新潮選書)など。

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