呂 厳 2019年4月20日(土) 21時20分
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しばらく前、「中国新疆36年国際協力実録」という題の書籍が私の仕事場に郵送されてきた。日本人僧侶の小島康誉さんからだった。
彼が仏教徒になったいきさつと言えば、それ以上にまるでドラマだ。小島さんは41歳の時に、全国の企業経営・管理者たちによる「釈迦の仏蹟巡礼の旅」という旅行団に参加した。そして、インドで釈迦牟尼仏が仏法を説いた場所の一つとされる霊鷲山を訪れた時に突然、2500年前の釈迦牟尼仏の説法の声を明瞭に聞いたという。同行の人は、だれもそんな体験をしなかった。小島さんだけに聞こえた。釈迦牟尼仏の説法を聴いた瞬間、小島さんの両眼からは涙がどうしようもなく溢れ出て止まらなかったという。こんな経験をしたことで、小島さんは仏教に強くひかれるようになり、日本に戻ってから佛教大学の通信教育を受けることにした。経営をしながら修行もするという日々が続いた。大学3年生の時に、とても熱心だということで教授の推薦をもらい、小島さんは得度した。経営者にして学生、しかも僧侶になったわけだ。1988年に卒業した際には、論文が優秀だとして学長から表彰された。その後の小島さんは、片手に電卓、片手に数珠という、僧侶兼ビジネスマンになった。
世の中のありとあらゆる物事は縁というものでつながり、補いあっているということなのか。もしも小島さんが宝石を扱う業者でなかったら、1982年に新疆ウイグル自治区に行くことはなかったかもしれない。彼が新疆に行ったのは、質が良くてしかも安価な宝石の仕入れ先になるのでは、と期待したからだ。そして、小島さんに仏教でいう特別の機根、つまり仏の教えを受け入れる資質がなければ、1986年に初めてキジル千仏洞を訪れた際に、すぐさま修復のための資金を支援することはなかっただろう。これらの「因」がなければ、小島さんの人生における第3章も始まらず、国際交流の使者となることもなかったはずだ。
小島さんは初めて訪れたキジル千仏洞を「人類共通の文化遺産だ」と直感したという。現地の人々が貧しい中で保護活動を何とか続けていることも知った。そして、現地職員が冗談に「10万元を寄付してくれたら、小島さんの専用窟を作ってあげます」というのを聞き、専用窟は要らないが、10万元は寄付すると即答した。当時(1986年)の為替レートでは、日本円で約450万円に相当する金額だった。
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